12月7日、若林の誕生日当日。二人きりの居残り練習を終わらせ、ロッカールームでの着替えが済んだところで、シュナイダーは若林に、掌に乗るような小さい紙袋を手渡した。それはキレイな柄がプリントされたラッピング用の袋で、花をかたどった青いリボンがシールで止められている。
 「若林、誕生日おめでとう。大したものじゃないが、良かったら使ってくれ」
 シュナイダーの言葉を聞き、若林は嬉しそうに顔を綻ばせた。
 「ありがとう、シュナ。これ、今開けてもいいか?」
 「もちろん」
 笑顔で頷き返すと、若林が早速包みを開け始めた。
 「ん? これって・・・?」
 中から出てきたのは、一本のリップクリーム。
 だが、若林にはそれが何なのか咄嗟に判らなかった。短いスティックには太いリボンが巻かれており、蝶の形に結ばれている。そのリボンが大き過ぎて、一見すると物が何だか若林には判らなかったのだ。
 「シュナ、これ何だ?」
 「お前、唇が荒れて血が出たって言ってただろ。毎日これを唇に塗ってれば、薬用のよく効くクリームだから、すぐに治るぞ」
 「あー、リップクリームかぁ。シュナ、ありがとうな!」
 シュナイダーの説明を聞いた若林は、さっそくリップクリームに巻かれたリボンを解き、キャップを開けた。そして中身を出すとそれを口の前に持っていく。そこで手を止めると、目の前にいるシュナイダーに話しかけた。
 「俺、舐めときゃ治るかと思ってさ、リップクリーム使おうとは考えてなかったんだ。だから、シュナイダーにコレ貰えて助かったよ」
 「お前の事だから、そんなこったろうと思ったよ」
 想像以上に若林が喜んでくれたので、シュナイダーも嬉しかった。
 「さぁ、早く使ってみろ」
 「うん。・・・あれ?」
 シュナイダーに急かされ、何気なくリップクリームに視線を落とした若林が、何故かリップクリームを口元から目の前へと持ち上げた。そのままジロジロとリップクリームを見つめながら、若林が尋ねる。
 「シュナイダー、これ新品だよな?」
 「・・・あ、当たり前じゃないか!」
 「だよな・・・でも、コレちょっと減って見えねぇ?」
 若林はリップクリームの先端が見えるように、シュナイダーの顔の傍へと近づけた。
 「ほら、この先っぽのとこ。何かに擦ったように見えるだろ?」
 「そ、そうか? 俺には判らんが・・・」
 「よく見ろって。先っちょ、減ってるって」
 リップクリームを手にシュナイダーに近付いた若林は、わざとらしく咎めるような口ぶりで言葉を続ける。
 「まさか、シュナイダーが使ったんじゃねーだろーな?」
 もちろんそんな事がある筈ない。リップクリームが減って見える事に気付いた瞬間、頭に浮かんだ冗談だった。ところが当のシュナイダーが、気まずそうに顔を引きつらせながらガクッと大きく頷いたものだから、若林は仰天した。
 「えっ!? マジでお前使ったのか! なんで??」
 当然の質問だった。しかしシュナイダーは、ああ、とか、うん、とか言うばかりでちゃんと答えない。
 リップクリームを自分で包装している時に閃いた「俺もこれを使えば、若林と間接キス出来る!」という、思いつきというか誘惑に耐え切れなかった・・・というのがその理由なのだが、その事を正直に打ち明けた場合、若林がどういう反応を示すかを思うと言葉を濁さずにはいられなかった。
 「えぇっと・・・、その・・・そう! 身体に塗るものだから、もし刺激が強くて若林に合わなかったりしたら大変だと思って・・・一応自分で一回塗って試してみたんだ」
 追い詰められたシュナイダーは、しどろもどろながら何とかそれらしい言い訳を思いつく事が出来た。これを聞いた若林は、そうだったのかと苦笑する。
 「気遣いは嬉しいけど、そういう時は同じ物を別に買って試すんじゃないのか?」
 「う・・・そういえば、そうだな。悪かった」
 「いや、別にいいけどよ」
 若林はそう言うと、手にしていたリップクリームを唇に当てて無造作に塗りつけた。
 「初めて使うから加減が判らん。こんなもんでいいのか?」
 リップクリームを塗った唇が気になるのか、口を開けたり閉めたりしながらシュナイダーに尋ねる。しかしシュナイダーの返事は無い。シュナイダーは目を見開き、ぽかんと口を開けたまま呆然と若林を見つめている。
 「どうした?」
 「わ、若林。いいのか、それ・・・俺が使ったって判ってるのに、その・・・」
 「うん。だってシュナが使ったのって、俺の為にやった試し塗りだろ? そんなの、別に気になんねーよ」
 若林がこともなげに言うのを、シュナイダーは感激の面持ちで聞き入っていた。
 リップクリームを使った真の理由がヤマシイものだったせいか、若林にバレたら「汚ねー!」とか「気持ち悪りぃ〜」とか、そういう嫌悪の態度を取られるものだと覚悟していた。なのに、若林の口からこんな台詞を聞けるなんて!
 シュナイダーの胸には、じんわりと暖かなものが広がっていた。改めてシュナイダーは若林の顔を見る。リップクリームを塗るのが初めてだと言う若林の唇は、クリームの塗り過ぎでてらてら光って見えた。
 「若林、それちょっと塗り過ぎだぞ」
 「あ、そうか? いっぱい塗れば、よく効くかと思って」
 「しょうがないなぁ」
 シュナイダーは若林の肩に手を置くと、空いた方の手でくいっと若林のあごを小さく上向けた。
 そしてきょとんとした顔でこちらを見上げている若林の顔に、自分の顔を近付け・・・

 リップクリームで光るピンクの唇に自分の唇を重ね合わせた。

 唇が触れた瞬間、若林がビクッと身体を強張らせ、握っていたリップスティックを床に落としてしまった。しかしシュナイダーは、リップスティックが床を転がる音程度では動じない。そのまま若林の唇を撫で回すように、ゆっくりと己の唇を動かし、それからそっと顔を離す。
 顔が離れた瞬間、シュナイダーの顔面めがけて若林の右拳が飛んできたが、すんでの所でシュナイダーは顔を反らせてこれを避けた。
 「若林? 急にどうしたんだ?」
 「こっちの台詞だ! いきなり何しやがる!!」
 両の拳を固めながら、真っ赤な顔でこちらを睨んでいる若林にシュナイダーが笑顔で答える。
 「何を怒ってるんだ。若林がリップクリームを塗り過ぎてるから、余分な分を貰っただけだぞ」
 「!? 余分な分って、だからって・・・あんな・・・」
 若林はもごもごと言葉を詰まらせると、ぷいと横を向いてしまった。試し塗りの事を思い出し、今のキスもシュナイダーの厚意なのだと思い至ったものの、それでも素直に礼を言う気にはなれなくて戸惑っているのだった。
 シュナイダーは身を屈めて、床の上のリップスティックを拾い上げる。ちゃんと蓋がされているから中身は汚れていないが、念の為ベンチに置いてあったタオルで軽くスティックを拭ってから、もう一度それを若林に差し出す。
 「ほら、落し物。よく効くんだから、毎日使えよ。失くすんじゃないぞ」
 にっこり笑ってシュナイダーがそう言うと、突然のキスに動転していた若林も少し落ち着いたようで、大人しくリップスティックを受け取った。
 「う・・・うん、判った。これからは塗り過ぎないように気をつける」
 リップスティックをバッグの中に仕舞うと、若林は小声でそう言った。
 「気にするな。塗り過ぎてたら、またいつでも余分な分をとってやるから」
 「そ、それが嫌だから、塗り過ぎないようにするって言ってんだ!!」
 若林はバッグを肩に担ぐと、シュナイダーの顔を見ないようにしながらロッカールームから出て行った。もちろんその後には、シュナイダーがぴったりとくっついている。恥ずかしさで俯き加減になっている若林に比べて、シュナイダーの表情は実に明るい。間接キスどころか、若林とファーストキスが出来たのだからそれも当然だ。
 「待てよ、若林! 誕生日だろ。どっか寄り道して遊んで行こうぜ!」
 最前味わったばかりの柔らかな唇の感触と、恥ずかしそうな若林の様子を思い返しながら、シュナイダーは陽気に若林の後を追った。
おわり