仕掛け人、焦る!

 三月も終りかけた、とある日の事。毎日の習慣で他のチームメートよりも早く練習場入りしている若林は、ロッカールームに足を踏み入れて目を丸くした。てっきり今日も自分が一番乗りだと思っていたのに、室内にはカルツを始め多くのチームメートが屯していたのだ。
 「・・・なんだ、みんな今日は随分早いんだな?」
 「まぁな。源さんに話したい事があるんで、待っていたんだ」
 器用にも楊枝を銜えたまま、カルツが若林に話し掛ける。若林は着替えを始めながら、カルツの話に耳を傾けた。
 「もうすぐ、エイプリル・フールだろ?」
 「うん、それが?」
 「今年のエイプリル・フールは、皇帝サマにターゲットを絞ってみたら面白いんじゃないか、って皆で話してたんだわ」
 カルツの言葉に、周囲のチームメイトがニヤニヤ笑いながら相槌を打つように頷いていた。
 若林は知らなかったのだが、ドイツでもエイプリル・フールの習慣は結構盛んで、ハンブルグジュニアユースチーム内でも毎年何かしら罪の無い嘘を仕掛けては、仲間内でイベントを楽しむのが慣例となっていた。他のチームメートらが、口々にエイプリル・フールにまつわるエピソードを口にする。
 「去年は、購買部の値札が全部二桁増しの値段になってたよな〜」
 「そうそう。あとカルツが一部リーグへ大抜擢、ってのもあったな。カルツは騙されなかったけど」
 「当たり前だ。四月一日に言われたって、信じられるかってぇの」
 カルツの台詞に、どっと笑いが起きる。若林もつられたように笑みを見せながら、カルツに先を促した。
 「皇帝サマって事は、今年はシュナイダーを騙すのか?」
 「そう。ワシが思い出す限り、奴さんエイプリル・フールのイベントに関わった事がないからな。去年も源さんと居残り練習をしてて、ワシらのやってる事に無関心だったし・・・だから、今年はシュナをメインに引っ掛けようって話」
 去年、エイプリル・フールに無関心だったのは、シュナイダーと一緒に練習していた若林も同じだった。自分たちの気づかぬ間に、皆でそんなお遊びを楽しんでいたとは今初めて知った。着替え終わり、荷物をロッカーに入れた若林が苦笑いを浮かべてカルツらに向き直る。
 「でも、あのシュナイダーが、むざむざエイプリル・フールのジョークに引っかかるとは思えないんだが・・・」
 「だから、若林に頼むんだよ!」
 カルツの後ろにいたチームメートが口を挟んだ。一体どんな仕掛けでシュナイダーを騙すつもりなのかと若林が尋ねると、カルツが段取りを説明してくれた。
 それによると、四月一日に若林が練習を欠席する。何故かと言うと、前日に交通事故に遭っているからだ。バイクとの軽い接触事故なので、入院などはしていないが自宅で療養中。だが怪我は軽かったものの頭を打っていて、記憶喪失になっている。
 「記憶喪失ぅ?」 
 「おう。シュナは源さんと仲がいいから、源さんがドイツでの記憶を失った、って知ったら驚くだろ?」
 「そりゃ、それが本当なら一大事だから驚くだろうけど、あからさまに嘘くせぇ話だな」
 そんな嘘にシュナイダーが騙されるとは到底思えず、若林は苦笑する。だがカルツは強気だった。
 「いや、判んねーぞ。ワシらならともかく、まさか源さんが仕掛け人になってるとは思わないだろ? 案外アタフタしてる所を拝めるかもしんねーって」
 確かに、若林は日頃から冗談を飛ばすタイプではない。ジョークの仕掛け人としては意外なキャスティングだろうから、その点では成功の可能性が高いかもしれない。だが、若林には気になる事がもう一つあった。
 「・・・悪いけど、俺は記憶喪失の演技なんて上手く出来ないぜ?」
 だがこの点も既にカルツらは相談済みだったとみえて、明快な回答が返ってきた。
 「源さんは日本語だけ喋ってればいいぜよ。記憶喪失で、ドイツ語も忘れちまったって事で」
 すっかりドイツでの生活に溶け込み、流暢なドイツ語を話す若林が、日本語だけを話していればそれだけで”記憶喪失”の真実味が増す。それに日本語だったら、多少大根気味の演技であっても、日本語が判らないシュナイダーに怪しまれる事はない。そう言われて、若林は頷いた。
 「判ったよ。練習を一日無駄にするのはつまんないけど、年に一度のイベントだもんな。その役、引き受けた」
 「やった! そうこなくちゃ!!」
 ロッカールームの中で歓声が起こる。若林にしてみたら、仲のいいシュナイダーを騙すのは、いささか後ろめたい気分でもなかった。だがカルツら他のチームメートがノリノリで喜んでいるので、若林は今回は割り切る事にした。エイプリル・フールのジョークだと後から説明すれば、シュナイダーも気分を害する事はあるまい。
 (でも、本当にシュナイダーが引っかかるかなぁ・・・?)
 皆とロッカールームを出て練習場へと向かいながら、若林は肩をすくめた。

 それから数日後。エイプリル・フールの当日になった。定刻よりやや遅めの時間に練習場に姿を現したシュナイダーは、そこに若林の姿が無い事にすぐに気づいた。
 「カルツ、若林は?」
 練習中の事ゆえ、カルツの耳元に顔を寄せて小声で尋ねるシュナイダーに、カルツはビックリしたような顔で答えた。
 「知らないのか? 源さんは昨日の練習の帰りに交通事故に遭ったんだぞ」
 「何!?」
 目を大きく見開き、切羽詰った声で聞き返すシュナイダー。その様子を他のチームメートが遠巻きに見て、クスクス笑っている事など全く気づいていない。一方シュナイダーに向き合ったカルツは、内心で吹き出しそうになっている事などおくびにも出さず、極めて真面目な口調で説明を続ける。
 「シュナは昨日も源さんと居残り特訓してたから、帰り道も途中まで一緒だったんだろ? 当然真っ先に知ってると思ってたぜよ」
 「そ、それで若林の容態は!?」
 カルツに掴みかからんばかりに興奮して、シュナイダーが尋ねる。今までエイプリル・フールのイベントに無縁だったシュナイダーには、今日が何月何日かなどという事を冷静に考える余裕は全く無かった。シュナイダーの胸には、これが冗談かもしれないなどという疑念は、一欠けらも浮かんでいない。それに拍車を掛けるように、カルツが筋書き通りに、『大した事故ではなく、大きな怪我もしていないらしいので、若林は自宅療養中だ』と告げる。
 「だから、今日は練習が終ったら皆で源さんの見舞いに行く事になってるんだ。シュナイダーも来るだろ?」
 見舞いに行った先の若林が、記憶喪失に陥って日本語しか話せなくなってる様を見たら、シュナイダーがどういう反応を示すかと楽しみにしながら、カルツが尋ねる。
 だが、シュナイダーの返答は、カルツたちの想定外のものだった。
 「若林が事故に遭ったというのに、のんびり練習なぞしていられるか。俺は今すぐ、若林の家に行く」
 そう宣言すると、カルツが引き止める間もなくシュナイダーは練習場から立ち去ってしまった。後に残されたカルツの元に、チームメートがばらばらと集まって来て事情を尋ねる。カルツが事の次第を話すと、回りの連中は大笑いだった。
 「シュナイダー、マジで引っ掛かったんだ!」
 「まさか早引けまでするとはなぁ〜。でも、この後どうする?」
 ターゲットがまんまと罠に掛かったまでは良かったが、一人で先に行かれてしまったので、その後の様子を見て楽しむ事が出来ない。その点を皆不満に思っていた。
 だが、まさかシュナイダーの後に続いてぞろぞろと全員早退というわけにもいかない。
 「仕方ない。源さんが上手くシュナをあしらってくれてる事を祈って、ワシらは予定通り練習が終ってから源さんの家に行こう」
 カルツの言葉に、一同は大きく頷くのだった。

 一方、若林の家では、若林がパジャマ姿で退屈そうに部屋の中をうろついていた。打ち合わせ通りに練習を休み、わざとらしく頭に包帯を巻いている。壁の時計を見上げると、まだ練習開始からそう経っていない時間だった。
 段取りでは、練習が終った後で、見舞いという名目で、カルツらがシュナイダーを連れて家に来る事になっている。
 「まだ大分あるなぁ・・・」
 本当だったら今日も普通に練習に参加しているのに・・・と、若林は小さなため息をつく。若林がいなければ成功しないプランだから、などとチームメートは若林の事を盛んに持ち上げていたが、冷静に考えてみると自分は一番損な役回りだな、と若林は思った。
 打ち合わせの刻限にはまだ間があるのだから、怪我人の扮装を解いてちょっとロードワークでもして来ようか。窓際に立った若林は、そんな事を考えながら、何気なく外を眺めた。
 「ん? まさか、あれは・・・?」
 往来へと面した窓からは、玄関付近の様子がよく見える。そこには、まだ来るはずのないシュナイダーが息せき切って立っていた。若林の視線は素早く周囲をチェックするが、辺りに他の人影はない。
 「シュナイダーひとりだけ? しかも、こんなに早く来たのか!?」
 段取りとは違う展開に若林が戸惑っていると、玄関のチャイムが高い音を響かせて鳴り渡った。これからどうすればいいのか、若林は焦りながら考える。
 素直にシュナイダーを家へ迎え入れて、今回の事はエイプリル・フールのジョークだと打ち明けてしまおうか。だが、数日前からカルツら大勢のチームメートと打ち合わせを重ね、練習まで休んで実行に移したプランなのだ。今回の悪戯の成功を楽しみにしていた彼らの事を思うと、自分ひとりの判断で簡単に止めてしまっていいものかと迷う。
 練習時間が終れば、予定通りカルツたちが家にやって来るだろう。その時、若林が自分から嘘だとバラしてしまったと知ったら、彼らはガッカリするに違いない。
 ならば、カルツたちが家に来て合流するまで、ベッドで眠っていた事にして居留守を使おうか? だが、心配して駆けつけてくれたであろうシュナイダーを、何のフォローもなく家の外に放置しておくのも申し訳なかった。
 「・・・仕方ない。出来るところまで、一人でやってみよう」
 覚悟を決めた若林は、玄関に出向きドアを開けた。包帯姿の若林を見たシュナイダーの顔色が曇っているのを見て、若林は内心大いに気が咎めた。シュナイダーは心配そうに尋ねる。
 「カルツから聞いたぞ。交通事故だって? 頭を怪我したのか? 入院しなくて、本当に大丈夫なのか?」
 それらの質問についドイツ語で答えそうになり、若林は慌てて言葉を飲み込んだ。そしてカルツたちに指示された通り、日本語で返事をする。
 『・・・俺は、日本語しか判んねーんだけど?』
 「え?」
 キョトンとした顔でシュナイダーがこちらを見た。
 「若林、どうした? 急に日本語なんか使って・・・」
 途端に若林は窮してしまった。計画では若林の家に来るまでの間に、カルツや他のメンバーが、若林が事故に遭った事、怪我自体は軽い事、だが頭を打ったせいで記憶喪失に陥りドイツ語も忘れている事などを、シュナイダーに吹き込んでおいてくれる筈だった。
 だが今のシュナイダーの反応から察するに、彼は事故の事しか聞かされていないらしい。予備知識のない相手に、自分が記憶喪失でドイツ語も忘れているという設定を、首尾よく信じさせる事が出来るだろうか。
 だが、その心配は無用だった。若林が頭に包帯を巻いている事から、シュナイダーはもしかしてと察しをつけたらしい。
 「若林、ドイツ語が話せなくなったのか? そうなんだな?」
 労せずして設定を伝える事が出来て思わず笑顔で頷いてしまいそうになり、若林は慌てて首を横に傾げて誤魔化す。だが問題はまだ解決していなかった。若林はドイツ語だけでなく、ドイツでの出来事を全て忘れている事になっている。つまり今は見知らぬ相手と向き合ってるわけだ。
 (普通は全然知らない外人が急に家に来たら、警戒して追い返そうとするよな・・・でも・・・)
 今回の事は全てジョークなのだから、本当にシュナイダーを追い返すわけにはいかない。しかしこの設定の下で、自分がシュナイダーを招き入れるのも変だ。だが、このままではカルツたちが来るまで到底間が持たない。
 (やっぱり、エイプリル・フールだってバラすしかねぇか)
 若林が諦めかけた時、シュナイダーが意外な言葉を口にした。
 『アナタ、ドゥイツゴ、ワカリ、マスカ?』
 驚きのあまり、若林の目と口が大きく開かれる。
 シュナイダーは日本語が話せるのか? 
 そんな話は初耳だった。いや、記憶を辿ってみれば、知り合って間もない頃に、日本語を覚えたいなどとシュナイダーが話していた事は確かにあった。だが、それっきり日本語学習についての話題が出た事が無かったので、てっきりその場限りの思いつきで口にしただけで、本気ではないと思っていたのだが。
 (もしかして、俺を驚かそうと思って、俺に内緒で勉強してたのかな?)
 真の理由は判らないが、とにかく当面は助かったと若林は胸を撫で下ろす。若林はシュナイダーが聞き取りやすいよう言葉遣いを意識しながら、日本語で答えた。
 『いいえ。判りません。私は日本語しか判りません』
 真剣な面持ちで若林の言葉に耳を傾けていたシュナイダーが、やっぱりというように肩を落とす。
 「何てことだ。一時的なものならいいが、まさかこんな事になるなんて・・・」
 ドイツ語で独り言のように呟くシュナイダーに向かって、若林は悪戯の続きを仕掛けることにした。
 『ところで、あなたは誰ですか?』
 若林からのこの質問に、シュナイダーは顔色を変えた。
 「何だって!? 若林、俺の事が判らないのか? 俺は、えぇと・・・」
 シュナイダーが驚愕の表情を浮かべたまま、口ごもる。そしてゆっくりと日本語で名乗った。
 『ワ、タシ、ナマェ、Karl Heinz Schneider』
 『私の名前は若林源三です。初めまして』
 若林はわざと畏まった姿勢で、深々と頭を下げて見せた。友人同士ではありえない、よそよそしい挨拶だ。これにはシュナイダーもショックを受けたようだ。戸口に佇んだまま途方に暮れた顔をしている。何かを言いかけては、首を振り混乱した様子でたどたどしい日本語を口にする。
 『・・・ワカバヤシ、アナタ・・・ワ、タシ・・・』
 まごついているシュナイダーが流石に気の毒になってきて、若林は助け舟を出す事にした。身振りでシュナイダーを家に招き入れると、彼をリビングルームのソファに座らせ、自分もその真向かいに腰を下ろす。そしてシュナイダーが答えやすいように、こちらから質問をしてやった。
 『ここは、日本ではありません。何故、私はここにいるのですか?』
 「そんな事も覚えていないのか・・・若林、気の毒に」
 小さくため息をつきながら、シュナイダーが日本語で答える。
 『ココ、ドゥイツ。アナァタ、・・・サカー、ベンキョ、ドゥイツ』
 シュナイダーの言葉に、若林は笑顔で大きく頷いた。『サッカー留学』という単語が出てこなかったようだが、今の単語の羅列で十分意味は伝わった。
 (シュナイダー、発音とかはまだまだだけど結構デキるじゃねぇか)
 若林はシュナイダーと片言の日本語で会話するのが、段々楽しくなってきた。自分が外国語会話の講師になったような気分だ。
 『判りました。サッカーの勉強をする為に、私は日本からドイツに来たのですね』
 若林の言葉を聞いた後、少し考え込んでからシュナイダーが頷いた。頭の中で意味を確認しているから、反応がやや遅いのだろう。長めの文は、シュナイダーには聞き取りにくいらしいと察して、若林は今度はもっとシンプルな質問をする。
 『では、あなたは私の友達ですか?』
 『ハ・・・・・・・・・イィエ!』
 暫しの沈黙の後で否定の言葉が返ってきた来た事に、若林は内心で苦笑する。違うぞ、シュナイダー。そこは『はい』って答えなきゃ。
 さりげなく間違いを悟らせるつもりで、若林はもう一度同じ質問をする。だがシュナイダーの返事は『イィエ』のままだった。それならと若林は違う質問を口にしてみた。
 『では、あなたと私は、どういう間柄ですか?』
 『クォイビット、デス!』
 今度は若林が考え込む番だった。『クォイビット』とは聞きなれない言葉だ。
 (シュナの奴、発音がイマイチなんだよな。何て言ったつもりなんだ?)
 若林は友人、知人、知り合い、仲間、チームメート、などの正解の可能性がある日本語を思い浮かべるが、どれも違うようだ。若林はもう一度聞いてみた。
 『クォイビット、とは何のことですか?』
 『クォイビット! アナタ、ワ、タシ、アイスィテル! クォンヤク、ミライ、ケッコンン、フゥフ!』
 早口にまくしたてながら、シュナイダーがソファから立ち上がった。そして若林に近づくと、ガバッとその身を抱きしめる。突然の事に抵抗する暇もなく抱きすくめられながら、若林は驚いて叫んだ。
 「シュナイダー! 何すんだよ!?」
 あっと気づいた時にはもう遅かった。若林を抱きしめたままで、シュナイダーが驚いたようにドイツ語で聞き返す。
 「・・・若林、ドイツ語を思い出したのか?」
 今から日本語で取り繕っても、もう駄目だろう。だが、カルツたちが来るまでは、一応演技を続けてみよう。そう思って若林はドイツ語で答えた。
 「ああ、急に頭がスッキリして、あんたの言葉が判るようになった。でも、あんたの事は思い出せない」
 我ながら嘘臭い、と若林は思った。こんな嘘じゃ、流石にバレるか・・・。
 だがシュナイダーの目には、相変わらず落胆の色が浮かんでいた。こちらの嘘を見破っているようには見えない。
 「そうか。だが言葉が通じるようになったのは、大いなる進展だ」
 若林を抱いたまま、シュナイダーがゆっくりと言った。
 「若林、もう一度言う。お前と俺は恋人同士だ」
 「なにぃーっ!!!?」
 ギョッとしてシュナイダーから離れようとする若林の腕を捕らえたまま、シュナイダーが言葉を続ける。
 「俺たちは付き合ってる。毎日デートもしてる。その証拠に・・・」
 不意に言葉を切ったシュナイダーが、すっと唇を若林のそれへと重ねた。唇が触れ合った瞬間に固まってしまった若林の顔を見ながら、シュナイダーが柔らかに微笑む。
 「判ったか? 俺たちは愛し合っていて、婚約もしてるんだ。将来は結婚して晴れて夫婦に・・・」
 「・・・・・・そんなわけ、あるかーっ!!」
 フリーズ状態だった若林が、我に返って怒鳴る。シュナイダーがガッチリ抱きついて離れないので、若林はシュナイダーの足を思いっきり蹴った。これにはシュナイダーも堪らず、若林から身体を離す。その背中を突き飛ばすようにしながら、若林はシュナイダーを玄関まで追い詰めて家から叩き出した。
 ドアを閉めた途端に、ノックの音とドアチャイムが同時に鳴り渡った。若林の名を呼ぶシュナイダーの声も、ドア越しにハッキリ聞こえる。だが若林は構わずにドアに鍵を掛けた。
 電話のベルが鳴った。
 若林はドアの外のシュナイダーはそのままにして、電話のある部屋に向かう。受話器を取り上げると、聞こえてきたのはカルツの声だった。
 『よう、源さん。シュナイダーがそっち行っただろ? どうだ、様子は?』
 この台詞を聞いた瞬間、若林は全てを悟った気がした。
 俺がカルツたちと組んでシュナイダーを騙してたんじゃない。シュナイダーがカルツたちと組んで、俺を騙していたのだ。エイプリル・フールのターゲットは、シュナイダーではなく俺だったんだ!
 シュナイダーが一人でやって来たのも、嘘臭い記憶喪失の設定をあっさり信じたのも、そしてタイミングを見計らったかのようにカルツが様子を探る為に電話してきたのも、それが本来の筋書き通りだったからなのだ。自分が悪戯の仕掛け人だと思い込んでいれば、自分が騙されているとは気づきにくい。全く手が込んでいる。
 そう判ってみると、騙されたのは悔しいが然程腹は立たなかった。若林は苦笑いしながら、電話の向こうのカルツに話し掛けた。
 「ああ。まんまと引っ掛かったよ。お陰でシュナイダーにキスまでされちまった。これで満足か?」
 『キス!? おい、それは一体どういう・・・』
 「詳しい事はシュナイダーに聞いてくれ。でもこの次は、もう騙されないからな!」
 若林は電話を切った。玄関からはまだシュナイダーの鳴らすドアチャイムがやかましく鳴っていたが、放っておく事にした。若林は鏡に向かうと、頭に巻いた包帯を解き始めた。

 トイレを口実に練習を抜け出し、若林の家に電話を掛けに行ったカルツが戻ってきた。カルツを取り囲みながら、他のチームメートが尋ねる。
 「若林、何だって?」
 「それが・・・源さんは、どうも自分が騙されたと思ってるみたいでな」
 一同は顔を見合わせて、若林の家で何があったのかと首をひねる。そしてとある仮説に行き着いた。
 恐らくシュナイダーは、若林に会ってすぐに、今回の一件がエイプリル・フールのジョークだと見抜いたのだ。そして若林を、逆に何らかのペテンに掛けたのだろう。それで若林は、シュナイダーとカルツたちがグルだと誤解しているのだ。
 「うーん・・・多分、そんなとこなんだろうな」
 若林の言ってたキス云々というのが気にならないでもなかったが、カルツは皆の意見に頷いた。

 若林の家の前では、シュナイダーが尚もドアチャイムを鳴らし続けていた。
 「若林を怒らせてしまったか・・・いい方法だと思ったんだが・・・」
 事故に遭い、ドイツ語も俺の事も忘れてしまった可哀想な若林。だが言葉の方は、将来日本語で若林にプロポーズする為に、密かに日本語を勉強していたのが幸いして、若林の記憶を取り戻す事が出来た。
 後は、俺の事を思い出してもらうだけ。だが、そこでシュナイダーは、ある事を思いついた。
 俺の事を思い出せないのなら、俺が若林に新しい記憶を植えつけてあげればいい。何も覚えていないのなら、俺たちが恋人同士で将来を誓い合った仲だと教えれば、素直に信じてくれるのではないか?
 現実には友人以上の仲になかなか進めていなかったが、これは一気に若林と親密になれるチャンスかもしれない。そう思っての行動だったか、流石に性急過ぎて若林の怒りを買ってしまったようだ。
 「まぁ、いいさ。また明日から、俺が恋人だと根気よく教えていけば、若林もそのうち信じてくれるだろう」
 今日が何の日かという事には全く思い至らぬまま、明日への希望を胸にシュナイダーは若林の家から立ち去った。翌日には若林がケロッとした顔で、いつも通り練習に顔を出すなどとは微塵も思わずに。
おわり