厄日

 シュナイダー家の朝は早い。母親の勤務先が遠いので、朝食の支度も出勤時間に合わせて早くなっているのだ。子どもたちも母親と一緒に食事をしたいので、毎日早起きをしている。今朝も親子三人で和やかに朝食のテーブルを囲んでいたのだが、何気なく壁のカレンダーに目をやった母親の表情が急に険しくなったのを、シュナイダーは見逃さなかった。
 「母さん、どうかしたの?」
 「いえ、去年の事を思い出しただけよ。丁度去年の今頃、あなた大変だったでしょう?」
 言われてシュナイダーは思い出す。ただの風邪だと甘く見ていたのをこじらせてしまい、とうとう入院する羽目になった事がある。そういえば去年のこの時期だった。
 「それ、7月4日だよ。朝、咳しながら出てったお兄ちゃんが、そのまま病院に入っちゃってずーっと帰ってこなかったの」
 パンを頬張りながら、マリーが口を挟む。
 「へぇ、去年の今日か。マリー、よく覚えているな」
 素直にシュナイダーが感心すると、マリーは更に得意げになった。
 「だって、お兄ちゃんはおととしの7月4日もひどい目に遭ったじゃない。バイクに轢かれて大騒ぎだったの、マリー覚えてるもん」
 「あれも同じ日だっけ?」
 確かに二年前、信号無視のバイクにはねられて病院通いをした事がある。だが日にちまでは覚えてなかったので、シュナイダーは首を捻った。しかし母親の方は何かに思い至ったらしく、顔色が変わっている。
 「待って! 確かめるから」
 そう言うと母親は席を離れ、今までに書き溜めた日記帳を何冊も抱えて戻ってきた。そして去年と一昨年の7月4日のページを開き、マリーの記憶が正しかった事を確認する。更に三年前、四年前とどんどん遡って内容を調べ、悲鳴をあげた。
 「何てこと! カールが野良犬に噛まれたのも、木登りで遊んでいて落っこったのも、迷子になって捜索願を出す寸前まで帰って来なかった時も、とにかく悪い事は全部7月4日に起きているわ! 嫌だ、何で今まで気付かなかったのかしら!」
 「本当に?」
 夏が近くなると悪い事が起きているような自覚はあったが、まさか全部同じ日だとは思わなかった。シュナイダーは母の日記の該当箇所を読ませて貰い、それが嘘でも冗談でもないと知り目を丸くする。やっとパンを食べ終わったマリーが、無邪気な声で言った。
 「お兄ちゃん、スゴイ! それじゃ、今日も悪い事が起きるのかな?」
 「変な事言わないで、縁起でもない」
 母親が不安そうな顔でマリーをたしなめる。それから息子に向き直ると、真剣な声音で言った。
 「カール、今日は学校もクラブも休んで、家で大人しくしていたらどう?」
 しかしシュナイダーは、母の言葉には従わなかった。母の心配も判るが、だからといって過剰に警戒して家に閉じこもって過ごすなんて馬鹿げている。
 「ただの偶然だから平気だって。母さん、つまんない事を気にしてると遅刻しちゃうよ」
 依然として母は気掛かりな様子だったが、シュナイダーは急き立てるようにして彼女を会社へと送り出した。
 「お兄ちゃん、ホントに大丈夫?」
 部屋で学校へ行く支度をしていると、マリーが問いかけてきた。シュナイダーは妹の顔を見ながら、堂々と答える。
 「当然だ。過去は過去、今日は今日。悪い事なんて起こる筈がない!」
 「ほんとうに〜?」
 「・・・・・・多分」

 「やっぱり平気だったか。ビクビクして損した」
 ロッカールームで着替えながら、シュナイダーは今日これまでの出来事を思い返し苦笑いを浮かべた。母にはああ言ったが、万が一という事もある。用心するに越した事はないので、今日のシュナイダーは通学中も学校に着いてからも、そして学校から帰宅してクラブの練習場に向かう間もずっと周囲に気を配り、事故などに巻き込まれないよう慎重に過ごしてきたのだった。
 その甲斐があったのか、元々何も起こる筈がなかったのか、とにかく今のところ悪い事は何も起きていない。凶事に見舞われるかもしれないなんて、気にし過ぎだった・・・と思い、シュナイダーは肩の荷が下りてホッとする。
 「なんだ、楽しそうだな。どうした?」
 ポンと親しげに肩を叩かれ、シュナイダーがそちらを向く。声を掛けてきたのはもう着替え終わっている若林だった。何かいい事でもあったのかと訊かれたので、シュナイダーは7月4日にまつわる話を若林に聞かせた。奇妙な内容なので、若林も興味を引かれたようだ。
 「今までにそんな事が? じゃあ、今日はシュナイダーにとっては厄日だな」
 「若林まで妙な事を言うな」
 着替えを終わらせ、シュナイダーは若林と一緒にロッカールームを出た。通路を並んで歩きながら、シュナイダーは若林に盛んに話しかける。オカルトじみた事を気にして怖がっているなどと思われて、若林に嫌われては敵わない。ここはキッチリ弁明しておかなければ!
 「母は心配性だから気にしていたけど、俺は何とも思ってないぞ。去年までのは偶然が重なっていただけ。実際今日は、家でも学校でも別段何も起こっ・・・わわっ!」
 ずるっと足を滑らせ、シュナイダーが体勢を崩す。そのまま後ろへ倒れそうになるのを、若林が慌てて抱きとめた。お陰でシュナイダーは転倒せずに済んだ。
 「お・・・あ、ありがとう、ワァカバヤシ」
 思いがけなく若林に抱擁され、シュナイダーの動悸が早くなる。興奮で舌がもつれてしまったが、若林の方は転びかけたショックのせいだと推察したのか、特に何とも思わなかったようだ。
 「なんだこりゃ・・・。どうして今日に限って通路が濡れてるんだ!」
 シュナイダーの滑った辺りに屈みこんだ若林が、憤慨した声を上げる。見れば若林の言うとおり、何かの液体がこぼれて水溜りが出来ていた。
 「しかもこっち側・・・よりによって、シュナの歩いてた方にだけこぼれてるぜ」
 「何だって? それって、俺が転ぶようにか?」
 シュナイダーと若林は顔を見合わせる。
 「・・・いや、まさかな。偶然だろ」
 「ああ、偶然、偶然。早く行こうぜ」
 敢えて多くは語らず、二人は練習場へ出た。まだ練習開始時刻には早かったが、ピッチには既に多くのチームメートがおり、思い思いに個人練習を始めている。
 「危ない!」
 いきなり若林がシュナイダーの腕を後ろへ引いた。引っ張られて若林に倒れ掛かったシュナイダーの目の前を、ビュッと風を切ってボールが横切っていく。続いて少し離れたところでボールを蹴っていたチームメートたちが、焦った声で叫んだ。
 「シュナイダー、大丈夫か!?」
 「すまん、ミスキックだ! ごめん!!」
 「気をつけろ!!」
 怒鳴り返したのはシュナイダーではなく若林だった。彼らに背を向けると、若林はシュナイダーに言った。
 「おい、これって・・・お前、今日はマジでヤバイんじゃねーか?」
 「うーん・・・でも、二回とも怪我しなかったし・・・」
 確かに気を抜いた途端に続けざまに危ない目に遭ったのは不気味だが、どちらも傍に若林がいて若林が助けてくれた。お陰で自然な形で二回も若林と抱き合えたので、シュナイダーにとってはむしろ嬉しいくらいだった。
 だが内心浮かれているシュナイダーと正反対に、若林は渋い顔だ。
 「だからってこの先も無事とは限らないだろう。何たって厄日・・・」
 と、言いかけて若林が言葉を飲み込む。
 「悪い事が起こる日だって、意識するのも良くないかもな。そうだ、シュナイダー、今日は楽しい最高の日だと思ってろ」
 「楽しい日って何だよ?」
 「・・・・・・誕生日とか?」
 「俺の誕生日は5ヶ月前に終わってるんだが」
 「いいから! 今日は嬉しい楽しい誕生日! いいな?」
 口調は乱暴だが、その顔つきからは親友の身を案じているのがひしひしと伝わってくる。シュナイダーは素直に頷いた。厄日を誕生日にするなんて言ってる事がムチャクチャだが、それは若林が心配してくれているからなんだと思うと、シュナイダーは嬉しくて堪らない。
 (そうだ! どうせなら・・・)
 「若林、今日は練習を休まないか?」
 「えっ?」
 戸惑った様子の若林に、シュナイダーは小声で説明する。
 「今日は二回危ない目を見たが、どっちもお前が助けてくれた。今日の俺にとって若林は、不運から逃れる為のお守りみたいなものじゃないかと思うんだ。でも練習が始まったら、お前はGKだから俺とは別メニューの練習になるだろ?」
 「あー、そういう事か・・・」
 しかし若林はすぐには返事をしなかった。朝晩休日と時間さえあれば練習に励む男なので、チーム正規の練習をサボるのが嫌なのだろう。だが、若林の決断は思いのほか早かった。
 「判った。今日は一緒にいよう」

 サボりの多いシュナイダーは、今日も最初から練習に来てなかった事にして先に引き上げた。若林は体調が悪いからと監督に嘘の届けを出しに行き、無事に許可を貰う事が出来た。練習場の外で落ち合った二人は、連れ立って歩き始める。
 まさかこんな形で若林とのデートに漕ぎ着けられるとは思わず、シュナイダーは上機嫌だった。襲ってくるかもしれない災厄も気になるが、それよりも若林と二人でいられる喜びの方が遥かに大きい。
 「さてと・・・若林、これからどうする?」
 「どう、って、家に帰るんじゃないのか? 今日はウロウロしてたら何が起きるか判らないだろ。家の人が帰ってくるまで、俺がいてやるから」
 どこにも寄り道せずに帰るだけかとガッカリしかけたが、言葉の後半を聞いてシュナイダーは立ち直った。
 (母さんが帰るまでには何時間もある・・・って事は、それまで若林と部屋に二人っきりなのかぁっ!!)
 「シュナ!! 前っ、まえーっ!!」
 ニヤケながら早足で歩いていたシュナイダーは、若林の声で弾かれたように後ろへ飛び退った。信号のない交差点に差し掛かっていたシュナイダーの前を、トラックが轟音を響かせながら通り過ぎていく。あのまま向こうに渡ろうとしたら、はねられていたところだ。冷や汗を手の甲でぬぐっていると、若林が怒ったように言った。
 「シュナイダー、何やってんだ! 今日は厄・・・いや、誕生日なんだぞ! もっと用心しろ」
 「ああ、そ、そうだったな」
 これで三度目、確かに浮かれている場合じゃなさそうだ。我に返ったシュナイダーは気持ちを引き締める。
 だがトラブルはこれで終わらなかった。
 練習場からシュナイダーの家までは、何時間も掛かるような距離ではない。なのに飼い主の手を離れたドーベルマンに追いかけられるわ、高層アパートの下を通りがかった時に上から鉢植えが落ちてくるわ、見知らぬ女に浮気者呼ばわりされて刺されかけるわで、いつ病院送りになってもおかしくない状況だった。
 そうならずに済んだのは、若林が飼い主と一緒になって犬を捕まえ、落ちてくる鉢の真下にいたシュナイダーを間一髪で突き飛ばし、暴れる女を取り押さえて近くにいた本当の彼氏(髪と目の色以外シュナイダーには似ても似つかない男だった)に引き渡してくれたお陰である。
 こうしてシュナイダーは、災厄に見舞われつつも無傷で自宅へ帰りつけたのだった。シュナイダー家の玄関を見ながら、若林が深い溜息をつく。
 「・・・何とか無事に済んだな」
 「ああ。全部、若林のお陰だ」
 犬を追いかけ、ナイフを振り回す女と格闘した若林の顔は疲れきっていた。若林を家に招き入れ、シュナイダーは心からの礼を述べる。若林がいなかったら、今頃自分はどうなっていた事か。礼を繰り返すシュナイダーに、若林は気にするなと片手を振って見せた。
 シュナイダーが冷蔵庫から持ってきた缶ジュースを飲みながら、若林が呟く。
 「それにしても、本当に今日はシュナの厄日だったんだな〜」
 「いや、厄日じゃないぞ。あれだけ悪い事が立て続けに起きたのに、俺は怪我ひとつしなかった。むしろ幸運と言っていいかも」
 シュナイダーの言葉に、若林がニッと歯を見せて笑う。
 「そうだ。厄日じゃなくて誕生日だった。押し寄せてくる不運に負けない、去年までのシュナとは違う、新しいシュナの誕生日! だろ?」
 なるほどとシュナイダーの顔にも笑みが浮かぶ。若林が決めてくれた、俺の新しい誕生日。誰も知らない、俺と若林だけが知っている特別な誕生日。
 (・・・なんか、こういうのいいかも)
 有難い事に、帰宅した後は何のトラブルも起きなかった。母親が帰ってくるまでの間、シュナイダーは若林と今日の出来事を話題に大いに盛り上がった。マリーがすぐ傍にいたので、恋愛面での発展は望めなかったものの、友情が一層厚くなった事は実感できた。
 「じゃあな、シュナイダー。明日は今日の分まで特訓しようぜ」
 そう言い残して帰っていく若林を、シュナイダーは満ち足りた気分で見送った。

 二階の自室に引き上げたシュナイダーは、今日の出来事を振り返る。全くとんでもない一日だった。だが、それと同時にとても素晴らしい一日だった!
 今日を乗り切った事で厄払い出来たのかどうかは判らないが、来年以降もこの日を誕生日として祝いたい。そう思った。
 (若林は来年も俺の『お守り』を引き受けてくれるのかな?)
 ベッドに寝っ転がってそんな事を考えていると、階下から母の声が聞こえてきた。
 「カール! ゲンゾーから電話よ。早く出なさい」
 ガバッと身を起こしたシュナイダーは、大急ぎで部屋を飛び出した。そして階段を駆け下りようとして・・・・・・最上段から盛大に足を踏み外した。
おわり