貰って欲しい

 とある休日の朝、シュナイダーはベッドで心地よくまどろんでいた。寝顔がうっすら笑っているように見えるのは、よほど良い夢を見ているのだろう。しかし至福の時間はあまり長く続かなかった。キッチンから大きな物音と甲高い悲鳴が聞こえてきて、シュナイダーを夢の中から現実へと連れ戻す。
 「マリー!?」
 ベッドから飛び起きたシュナイダーは、事態を一切把握しないままキッチンへと駆け込んだ。
 「おっ?」
 何かに蹴躓きそうになって、シュナイダーは慌てて踏み止まった。台所の床には、日頃は棚に仕舞われている筈の大鍋やらボウルやら漉し器やらが散乱している。そして棚の前まで動かされた椅子の上に立ったマリーが、ビックリ顔で床を見下ろしていた。
 「・・・ごめんなさい」
 兄の存在に気付いたマリーが、椅子に乗ったままで謝った。どうやら何かを棚から取ろうとして、手が滑ったらしい。妹が無事である事、床に散らばった什器類の中に割れるような物が含まれていない事を確認して、シュナイダーは安堵する。
 「いいから、早く片付けよう。仕舞うのは俺がやるから」
 「はぁーい」
 椅子から下りたマリーが素直に鍋を拾い始める。そこに母親が姿を見せた。彼女はキッチンの有様を見て、呆れたような声をあげる。
 「一体何事なの? 二人で朝ご飯でも作ってくれてるのかしら?」
 「ちがう、手作りチョコレートを作るの」
 マリーが大きなボウルを胸に抱えるようにしながら母に答えた。このボウルを取りたかったのかと思いながら、シュナイダーが声を掛ける。
 「手作りチョコ? 止めておけ。お前にカカオの精製は無理だ」
 「そんなことしなくっても出来るの!!」
 テーブルの上に乗った板チョコを差しながら、マリーが言った。
 「今度のバレンタインデーに、ディルクにあげようと思って。日本式バレンタインデーよ」
 マリーが、最近仲良くしている友達の名前を挙げた。バレンタインデーに家族、友人間でプレゼントをするのは何も特殊な事ではないが、わざわざ『日本式』と言ってるのがシュナイダーには気になった。
 「日本式バレンタインデーって何?」
 「あのね、女の子が好きな男の子にチョコレートを贈って、愛の告白をするの」
 得意気に説明するマリーに、母親は目を丸くする。
 「愛の告白? なんだか大袈裟ね。贈り物は元々好きな者同士でするものでしょ」
 「日本ではそうなの! ゲンゾーから聞いたんだから、間違いないよ」
 「若林から!? お前、いつの間に・・・」
 決して聞き流す事の出来ない、最愛の人の名前が妹の口から軽く発せられたのが、シュナイダーには驚きだった。
 「昨日お兄ちゃんにゲンゾーからの電話取り次いだ時。お兄ちゃん、トイレ入っててすぐ電話に出なかったじゃない。その時に、ゲンゾーと色々お話したの」
 「あの時か・・・若林の奴、俺が電話に出たら用件だけですぐ切ったくせに」
 しかもその用件というのは、昨日のミーティング内容について確認したい事があったから、という至極事務的なもので、あらぬ期待に胸を弾ませて電話に出たシュナイダーを大いに落胆させていた。それなのに妹のマリーとは、若林が恋愛ネタっぽい会話を交わしていたというのが羨ましくてならない。
 「とにかく、今は私に台所を使わせてちょうだい。お菓子作りなら、後で手伝ってあげるから。ね?」
 母親がマリーに優しく声を掛ける。マリーのチョコレート作りは朝食後にゆっくり始める事になり、シュナイダーはひとまずキッチンを出た。朝食が出来るまでの間、ここに自分の居場所はない。自室に戻って服を着替えながら、シュナイダーはさっきマリーが話していた事を思い返す。
 (愛の告白にチョコレート、か・・・)
 それが日本の習慣だというなら、バレンタインデーに若林にチョコレートを贈ったら、若林は俺の気持ちを察してくれるのではないだろうか? 
 男同士ゆえ今まで想いを伝える事に躊躇していたシュナイダーに、これは願ってもない好機に思えた。そうと決まれば自分もチョコを用意しなければいけない。
 朝食の後片付けが終わると、シュナイダーはマリーにチョコ作りを手伝うと申し出た。一緒にチョコを作って、そのうちの幾つかを分けて貰おうと考えたのだ。
 だがシュナイダー意気込みとは裏腹に、マリーは兄の手伝いをあまり歓迎していないようだった。日頃のシュナイダーは菓子作りは勿論のこと料理もしないのだから、急に手伝ってやると言われても頼りになりそうにない事は幼いマリーにも容易に察しがつく。
 「お母さんに手伝って貰うからいいよぉ・・・」
 「そう邪険にするなよ。俺にもやらせてくれ、面白そうだ」
 「そんな事言って、カールはチョコレートが食べたいだけでしょ?」
 母親が「お見通しよ」といったニュアンスで笑いかけてくる。息子が同性の友人に愛の告白をする為にバレンタインチョコを作りたがっているなどという事態は、普通はまず思いつかないので当然の反応だ。
 あんたがいたら邪魔になるからと、母親はシュナイダーをキッチンから追い出してしまった。和気藹々とお菓子作りに取り組む母娘を見ながら、シュナイダーは肩を落とす。
 「仕方ない。若林に贈るチョコは店で買うとしよう」
 シュナイダーは家を出て、ショッピングセンターへと向かった。贈答用のチョコレートを売っている店を探してフラフラしていると、誰かに背後から肩を軽く叩かれる。何気なく振り向いたシュナイダーは、顔には出さなかったが大いに動揺した。
 立っていたのは、若林源三その人だったのだ。
 「よ! 買い物か?」
 「あ・・・ああ。若林も?」
 「うん。シューズが駄目になったから」
 そう言って若林は、手にしていたスポーツ店のショッピングバッグを掲げて見せる。そしてシュナイダーが手ぶらなのを見て、尋ねた。
 「お前はこれからみたいだな。何買うんだ?」
 「え? それは・・・えーと、チョコレートだけど・・・」
 バレンタインデー当日までは若林に秘密にしておきたかったのだが、咄嗟に嘘がつけなくてシュナイダーは正直に答えてしまった。すると若林がパッと顔を輝かせる。
 「チョコ? 判った、バレンタインデーのだろ?」
 やはり日本人は、この時期チョコと言えばバレンタインデー用のプレゼントを連想するらしい。シュナイダーは内心で納得する。若林は合点顔で、言葉を続けた。
 「マリーちゃんに頼まれたんだろ? 昨日、俺が日本のバレンタインデーの事を話したからな」
 図星だろうと訊かれて、シュナイダーは返答に詰まった。
 チョコレートはマリーに頼まれたからじゃない。俺がお前に贈りたいんだと話したら、若林はどう思うだろう? 俺の気持ちを察してくれるだろうか? 察するに決まってる、日本じゃバレンタインチョコは告白の証なんだから。ならば、俺の気持ちを知った若林の反応は・・・!?
 バレンタインデーを待たずして、告白タイムを迎えてしまった事にシュナイダーは焦る。ハッキリした答を知りたいと思いつつ、しかし引導を渡されるかもしれないと思うと、結局本当のことは言えなかった。
 「・・・そう。マリーに頼まれたんだ」
 「やっぱりな。よし、俺もう買い物終わってるから、選ぶの付き合ってやるよ」
 「いいのか!?」
 シュナイダーに異論のあろう筈がない。降って湧いた若林との買い物デートに、シュナイダーは興奮を抑え切れなかった。若林の肩に手を置くようにしながら、いそいそと歩き出す。
 「じゃあ、まず店を探そう。プレゼント用のチョコを売ってる店が判らなくて・・・」
 こうして二人は店内や他の場所も見て回り、何軒かのショップでチョコレートを選び、捜し続けた。参考意見と称して若林の好みを聞き、シュナイダーは最終的に一箱のチョコを購入する。それを店員にラッピングをして貰っている間、シュナイダーは若林に礼を言った。
 「ありがとう。お陰でいいチョコを買えたよ」
 「うん、マリーちゃんも喜ぶといいな」
 笑顔で応える若林の耳元に、シュナイダーが小声で囁く。
 「実はそれなんだが・・・マリーの奴、結構好みがうるさいんだ。もしマリーがコレを気に入らないようだったら・・・返品に来るのも面倒だし、その・・・若林が貰ってくれないか?」
 マリーに頼まれて買いに来たと嘘をついた手前、今さら告白にこのチョコは使えない。でもやっぱりバレンタインチョコは若林に食べて貰いたかった。本意は通じなくても、これは若林の為に用意したものなのだから。
 しかし若林の態度は素っ気無い。
 「俺に? いや、お前が買った物なんだから、もしそうなったらお前が食えよ」
 「そう言うな。若林に選んで貰った品だ。若林が食った方がいい」
 「でも、男からバレンタインチョコ貰ってもなぁ〜」
 冗談めかしつつ若林は尚も断ろうとしていたが、シュナイダーも諦めない。押し問答を続けるうちにとうとう根負けしたのか、遂に若林が首を縦に振った。
 「判ったよ。究極の義理チョコだと思う事にする。でも、その時はシュナも一緒に食おうな」
 若林の言葉に、シュナイダーはニッコリ笑って応える。告白の証だとは若林に通じていないけれど、形の上だけでも若林がチョコを受け取ると約束してくれたのが嬉しかった。
 来るべきバレンタインデーに思いを馳せ、シュナイダーの気分は弾みまくっていたのだった。
おわり