東京湾に浮かぶ「Jアイランド」は、世界でも類を見ない特徴を備えた人工島である。ここは島全体が、サッカーの為だけに特化してして造られた巨大規模の複合都市なのだ。以下、パンフレットの文章をそのまま引用すると……
一般市民も利用できる芝のグラウンドおよびフットサルコート
市民大会にも利用できるミニサッカー場
最新トレーニング設備を備えた代表チーム合宿所
審判養成所
サッカーミュージアム
などなど、サッカーに関してのあらゆる施設・設備が整っている事が判る。他にも、サッカーに関する書籍だけを収集したサッカー図書館。日本代表やJリーグだけでなく世界各国の代表チーム、クラブチームのグッズが買えるショップ街。国内外からの宿泊客の為に数多の高層ホテルが立ち並び、更には街の一角に「サッカー神社」なる代物まで建っているのが、いかにも日本的である。
このJアイランドのシンボルが、観客10万人を収容できる「Jアイランドスタジアム」だった。
日本が世界に誇らんとするサッカー都市、Jアイランドのメインスタジアムであるから、お披露目にもサッカー史上稀に見るビッグマッチが組まれていた。事前に行われたファン投票の結果を忠実に反映させて、日本代表対世界選抜というユニークなカードを実現させたのだ。
世界選抜チームにはその名の通り、ブラジル、アルゼンチン、イタリア、フランス、ドイツなど、国の壁を乗り越えて名選手が集まっている。キャプテンを務めるのは、人気投票で二位以下を大きく引き離したドイツ代表のカール・ハインツ・シュナイダーだ。
対する日本選抜のメンバーも、キャプテンの大空翼を筆頭に、黄金世代と評される錚錚たる顔ぶれが並んでいる。
サッカーファンならば、この対戦を見逃すわけにはいかない。観客席は満員御礼、試合の様子は国内だけでなく世界各国に配信された。その試合内容はファンの期待を裏切らないどころか予想を上回る熱戦となり、息つく間もなく繰り広げられる美技の応酬に観る者は全員魅了された。殊に、世界選抜チームの強烈なシュートを立て続けに防いでいたSGGK・若林源三が、好守及ばずシュナイダーにゴールを奪われてしまった瞬間は、観客のどよめきでスタジアム全体が揺れたかと思えるほどだった。
90分の激闘を終えた時、スコアは2-2の引き分けだった。本来ならここで試合終了なのだが、大空翼の提案した粋な計らいによって試合は延長され、世紀の一戦をとことん楽しみたい観衆を大いに喜ばせた。
記念すべきJアイランドスタジアムのオープニングマッチは、こうして熱狂のうちに幕を閉じたのだった。
世界選抜として招かれた外国人選手の殆どが、試合を終えた後もすぐには帰国しなかった。何しろここは、世界唯一のサッカー特化都市Jアイランド(Jタウン)なのだ。後学の為にも見ておきたい場所がごまんとある。もっともタウン内には大勢の観光客を当て込んで作られた歓楽地区もあるので、まずは休養とばかりにそちらへ出向く者も多かった。
夜になってからシュナイダーが若林を誘って入ったバーは歓楽地区ではなく、外国人選手団が宿泊している高層ホテルの最上階にあった。この店は選手や関係者の専用となっており、一般の観光客やサポーターは入り口でチェックされ入店を断られるシステムになっている。タウンの歓楽地区に多数ある賑やかなスポーツ・バーとは違い、趣のある静かな店だった。
ほの暗い照明に照らされた店内はかなり広く、外に面した壁は全面ガラス張りになっていて東京湾の絶景を見渡せるようになっている。フロア中央にはグランドピアノが置かれており、年配の男性ピアニストが、しっとりした曲を奏でていた。一般客を入れないせいか、客は少ない。
シュナイダーと若林は窓際のテーブル席に着いた。テーブルの中央には、瑞々しい深紅のバラが一輪だけ活けられている。若林は眼下の夜景を見下ろしながら、シュナイダーに話しかけた。
「最上階だけあって、いい眺めだ。お前、よくこんな店知ってたな」
「ああ、チェックインの時にフロントで教わったんだ。ファンに囲まれる心配なく、寛げる店があるってね」
なるほどと頷いた若林が心地よさそうに音楽に耳を傾けている様子を見て、シュナイダーは満足げに微笑む。広い店内に客はまばら。照明は暗め。窓の外には美しい夜景。ピアノの生演奏。熱気に溢れた新興都市Jタウンの中とは思えないくらい、落ち着いたムードの店だ。
(いい雰囲気だ。若林とのデートに、これほど相応しい店はない!)
選手と関係者専用の店というから、今日の試合に呼ばれた選手らで混雑しているかとも思ったのだが、彼らは皆歓楽地区へと繰り出したらしい。シュナイダーの見たところ、店内にはJFA関係者と思しき日本人の客がわずかにいるだけだった。しかも彼らの席とシュナイダーたちの席は随分と離れている。
(……今夜は若林をじっくり口説けそうだ)
昼間の試合での互いの健闘を称える乾杯を済ませると、シュナイダーはさっそく若林に話しかけた。
「今日の試合は実に楽しかったよ」
「そうだな。だが、俺としてはリードを守りきれなかったんで、ちっとばかり不満なんだ」
グラスを置いた若林は、シュナイダーの顔を見てニヤリと笑う。
「ドイツで散々対戦してるから、お前にだけはゴールされまいと思っていたんだが、結局やられちまったな」
「散々対戦しているから、鉄壁のSGGKを打ち破れるのさ。俺以外の相手は完封したんだ、誇りに思えばいい」
そう、今日の試合で若林からゴールを奪ったのは俺だけだ。そして若林の恋人たりうるのも、この俺だけだ!
淡々とした口調で試合の総評めいた話題を続けながらも、静かなバーで若林と二人きりでグラスを傾けているというシチュエーションに、シュナイダーの期待は高まる。いつしかピアノが奏でる曲は勇ましげなものに変わっていた。闘志を奮い立たせるような曲調に乗せられ、シュナイダーはそろそろ試合以外の話題で若林の気を惹こうと考える。
「ところで、若林。こうしてお前の母国に来ているんだから、今夜はもっと別の話をしたいな」
「別の話?」
いま奏でられている曲を気に入ったものか、グラスを傾けながらチラチラとピアノの方を見ていた若林が、シュナイダーの顔に視線を戻した。
「いいけど、何の話をする?」
「…お前の事がもっと知りたい」
「何を今更改まって。長ぇ付き合いだろ」
陽気に笑い飛ばす若林の態度に、シュナイダーは内心で軽い苛立ちを覚える。確かに若林とは旧くからの付き合いで、気心知れた仲ではある。だが、それはサッカーを通じて温めた親交だ。今夜はサッカー抜きで若林と会話を弾ませ、若林の周りに溢れているサッカー仲間・ライバルたちの中から一歩抜け出し、恋人への地位に向けてステップアップしたい。
その為にも、何でもいいから若林の事が知りたかった。彼の人生がサッカーと共にある事は十分承知しているが、それだけにサッカーと切り離された部分での若林のプライベートに興味が湧いた。サッカー選手としての若林はあまりにも有名だが、彼がサッカーをしていない時の姿を知る者は少ないだろう。その限られた人間に、シュナイダーはなりたかった。
そんなシュナイダーの胸の内など知る由もなく、若林が暢気そうに口を開く。
「あのさ。俺の事より、ピエールが…」
「ピエール?」
若林の口から唐突にピエールの名前が出たことに、シュナイダーは面食らった。
フランス代表のエル・シド・ピエールは、シュナイダーと同じくファン投票によって世界選抜メンバーに選ばれた選手だ。今日の試合でシュナイダーのチームメートとなり、若林が守る日本ゴールを目指して共に闘った。
だが、何故ここでピエールが出てくるんだ!?
戸惑いを隠せないまま、シュナイダーが若林の顔を見る。その視界の下方に紅い物がチラと映った。そのままテーブルに目を落としてみれば、それは一輪挿しのバラの花だった。
バラの花。そうか、それで若林はピエールを思い出したのか。
試合開始前にJアイランドスタジアムのオーロラビジョンが、選手紹介で世界選抜のメンバーを次々と映し出していた時、何故かピエールはバラの花を銜えていたのだった。バラを銜えたピエールの顔がスクリーンに大写しになると、観客は異様に盛り上がり、スタンドにどよめきが起こっていた。若林はその時の事を言ってるのだと察しをつけ、シュナイダーの気分は俄かに軽くなる。
「あれは傑作だったな。一体何を考えて、あんな事をしたんだか」
「えっ、何が?」
キョトンとした目で若林に聞き返され、シュナイダーは不思議に思う。
「ピエールだよ。選手紹介のとき、あいつバラを銜えてただろ」
「あ、そうなんだ? 俺、気づかなかった」
この返答に、シュナイダーは漠然とした胸騒ぎを覚える。
バラの花でピエールを連想したんじゃないのなら、何で若林は急にピエールの名前を出したんだ? これがツバサの名前だったら、脈絡なく彼の名前を出されてもまたかと諦めがつくのだが…何故、ここでピエール!?
「ひょっとして、ボクの事を話してる?」
頭の上から聞き覚えのある声が聞こえて、シュナイダーは慌てて声の主を見上げた。
センスのいいカジュアルスーツを颯爽と着こなした、長髪の美男子が青い目を細めてニッコリ微笑んでいる。
いつの間にやら、テーブルの傍にエル・シド・ピエールその人が佇んでいたのだった。まさか噂の当人が現れるとは思わず、シュナイダーはたじろぐ。
だが、若林の方は落ち着いたもので、パチパチと拍手をしながらピエールに笑みを返していた。
「ピエール、お疲れ。初めて聴いたけど、今のいい曲だな」
「そう言って貰えると嬉しいよ。あれは今日の試合をイメージして、即興で弾いたんだ」
「へぇ〜、お前作曲もするのか!」
「ああ。うまくまとまらない時もあるけど、今のは我ながらいい出来だと思う」
感嘆の表情を浮かべる若林の隣に、ピエールは自然な素振りで腰を下ろす。登場するなり若林と親しげに話しこむピエールに、シュナイダーは眉をしかめた。
どうやら、さっき流れていた勇壮な曲は、ピエールが弾いていたらしい。シュナイダーが改めて店内を見渡すと、カウンター席で休憩していた初老のピアニストが腰を上げて、ピアノの方へと戻っていくところだった。
「ピエール、いつの間に元からいたピアニストと入れ替わったんだ?」
二人の会話を遮るように、シュナイダーがピエールに問い質す。ピエールは自分のグラスを口元に運ぶと、済ました顔で答えた。
「10分くらい前かな。ボクが店に来たとき、丁度ピアニストが休憩らしくピアノから離れるところだった。だから我侭を言って、彼のいない間だけ弾かせて貰ったのさ。シュナイダーはボクに全然気づいてなかったんだね。若林はすぐに気づいてくれたのに」
「驚いたぜ。曲がガラッと変わったから何気なくピアノの方を見たら、ピエールが弾いてんだから。飲み過ぎで見間違ったかと思って、何度も見直しちまった。でもどう見てもピエールだし、俺の方見て笑ってるし、本人に間違いないって納得したけど」
グラスを手に若林がクスクス笑うと、それにつられるようにピエールも笑みを零す。
だがシュナイダーだけは笑っていなかった。若林と向かい合わせに座って話していたのは自分なのに、若林がピエールとアイコンタクトを交わし、言葉を用いることなく二人が打ち解けていたのかと思うと甚だ面白くない。
不機嫌そうなシュナイダーには気づかぬ様子で、ピエールが更に言葉を続ける。
「さっきの曲、今日の試合をイメージしたと言ったけど、具体的に思い浮かべていたのは若林のプレーだよ」
そう言われて若林は目を丸くする。
「俺をイメージ? 俺、お前らの敵だったのに」
「演奏中、ずっと若林に見つめられていたからね。意識せずにはいられないよ」
「あはは、気になるからって、ジロジロ見過ぎだったか」
照れ隠しなのか、若林が頭に手をやり短髪を軽く掻く。その顔色が紅く染まっているのは酔いのせいだろうが、ピエールの言葉が嬉しくて頬を染めているようにも見えて、シュナイダーはますますむくれる。
シュナイダーの機嫌を損ねている事に気付いていないのか、若林は話しながら両手をテーブルの上で踊らせ、鍵盤を叩くような仕草をしていた。
「実は俺も、小さい頃ピアノ習ってたんだぜ」
「若林もピアノを? じゃあボクと同じだね」
「見えねーだろ?」
意外そうに聞き返すピエールの反応を、若林は面白がっているようだ。テーブルクロスの上で軽やかに踊っていた手を休め、言葉を続ける。
「うちは母さんがピアニストだったから、子供は全員ピアノやらされてたんだ。俺さぁ、ガキの頃から手がでかくて、その分指も長かったから、難しめの曲でも割と簡単に弾けたんだぜ。それで母さんに期待されてたし、絶対音感もあったし、サッカー始めてなかったら、今頃ピアニストになってたかもな」
そして話題は、若林がピアノを習っていた頃の思い出話に突入した。当時の事を楽しげに語る若林と、自分の経験談を交えながら相槌を打つピエール。音楽用語らしき聞き慣れない単語なども飛び交って、最早シュナイダーには口を挟む暇が無かった。無言でグラスを傾けながら、シュナイダーは焦りを感じる。
イヤな流れだ。
夜遊びに行こうとしつこく誘ってくるカルツら世界選抜のメンバーを振り払い、日本代表の仲間と連んでいた若林を強引に連れ出して、この店でようやく若林と二人きりになれたのに。
何で、俺を差し置いて、ピエールが若林と親しく語らってるんだ!!
シュナイダーが聞きたいと思っていた、サッカーを抜きにした若林の話をピエールがピアノをきっかけにあっさり聞き出しているのも、シュナイダーの焦慮に拍車を掛けていた。今まで知らなかった若林の子供時代のエピソードには興味を惹かれるが、ピエールと若林が親密になり、自分は蚊帳の外という構図は我慢できない。
とにかく話題を変えなければ!
シュナイダーは強引に、二人の会話に割って入った。
「…ところでピエール、あのバラは何のつもりだったんだ?」
音楽の話で盛り上がっていたところに唐突に話しかけられて、ピエールが目を瞬く。
「バラ?」
「ピッチに出た時は手ぶらだっただろう? どこから花を出したんだ? 大体なんで試合前に、バラなんか銜えてたんだ?」
「ああ、あの事か。ファンサービスに決まっているだろう」
ピエールは口元に爽やかな笑みを浮かべると、目の前の一輪挿しから花を抜き取った。
「日本に着いてすぐに、雑誌の取材を受けたんだ。サッカーマスコミではなく、若い女性をターゲットにした情報誌のだったがね」
バラの花を器用に弄びながら、ピエールが先を続ける。
「嬉しい事に、日本の若い女性の間で『エル・シド・ピエール』はかなりの人気らしい。サッカーに詳しくなくてもピエールだけは知っている、という女性も多いとか。その記者の口を借りれば、『ピエールの貴族的で美しい外見と華麗なプレースタイルは、ベルサイユ宮殿に咲き誇るバラの花を連想させる』そうだよ」
記者の言葉を引用しているとはいえ、自分の口から貴族的だの華麗だの、よくもまあ臆面もなく言えるもんだ。そう突っ込みたいのを、シュナイダーはグッとこらえる。
余計な茶々を入れるより、ここは黙って聞き流すのが大人の対応というものだ。正面に掛けている若林にどう思われるかを意識しながら、シュナイダーは黙ってピエールの話を聞く。
「だから、日本のファンが求めているイメージに合わせてみたんだ。真剣勝負の場なら不謹慎かもしれないが、エキシビションマッチなんだし、多少の遊び心は許されるだろう?」
「ああ、確かに観客は盛り上がってたな」
戯けた手振りでバラを銜える真似をしているピエールに、シュナイダーが頷く。
「で、あのバラはどこから出したんだ? そういえば、試合開始の時にはもう無かったな。まさかパンツの中に仕舞って…」
「だが折角のファンサービスも、日本代表の入場セレモニーですっかり霞んでしまったがね」
シュナイダーの疑問には答えず、ピエールはバラの花で若林の方をスッと差し示す。途端に若林が弾かれたように笑い出した。
「大漁船か! 俺も最初に話を聞いた時には、てっきり冗談だと思ったよ」
「日本的な雄大さがあって、素晴らしい演出じゃないか。あれは誰のアイディア?」
「さぁな。吉良監督が酔った勢いで決めたとか、もっと上の方の大物の鶴の一声だとか、色々言われてるけど」
「俺も、あの映像を見た時には驚いたぜ」
シュナイダーが相槌を打つ。ようやく話題に乗る事ができて、シュナイダーはホッとした。
だが努力の報われた時間は短かった。曲を弾き終えたピアニストが、しずしずとシュナイダーたちのテーブルに歩み寄ってきたのだ。
「お客さま、今のが最後の曲です。これで私の今日の務めは終わりました。もし宜しかったら後はご自由に…」
右手をピアノの方へ向けながらそう告げると、初老のピアニストは深々と頭を下げてその場を立ち去った。シュナイダーは絶句する。
(や、やっと話題を変えたのに、なんて事を言うんだぁーっ!!)
「ピアノ、弾いていいんだって。ピエール、また何か弾いたらどうだ?」
若林が笑顔でピエールに声を掛ける。シュナイダーの不安的中、話題は音楽に戻ってしまった。
今夜はもう駄目だ。
大方、若林のリクエストに応えてピエールが新曲でも弾いて、音楽的素養のある者同士で大いに盛り上がるに違いない。
諦め顔で小さくため息をつくシュナイダーの前で、ピエールが若林に話し掛ける。
「そう言う若林は? 久しぶりに鍵盤の感触を楽しんできたら?」
「俺? いや俺はもうずっと弾いてないし…」
片手を振って断りの意思表示をしてみせる若林を、半ばやけくそでシュナイダーが煽る。
「弾けよ、若林。百万人の客の前でコンサートやるわけじゃなし、間違ったって、どうって事ねぇんだから」
この文句が効いたのか、若林はあっさりと腰を上げピアノの方へと向かっていった。
やがてアップテンポの軽快な曲が、店内に流れ出す。BGMが途絶えて静かだった店の中に、その曲は活力を吹き込むようだった。
シュナイダーは驚いた。いくらピアノを習っていたといっても子供の頃だけの事で、十数年のブランクがある。てっきり、ミスだらけのたどたどしい弾き方をすると思っていたのに、シュナイダーの聴く限り若林の演奏は完璧だった。幼い頃にピアニストの母から受けた英才教育の成果は、何年経っても色褪せていないようだ。
「すごいな。本当のピアニストみたいだ!」
惚れ抜いた相手の意外な一面を目の当たりにして、シュナイダーが興奮気味に喋る。
「そうだね。繊細さには欠けるけど、それを補って余りある力強い個性が音色に発揮されている。何より、一度聴いただけの曲を、こうやってすぐに編曲して弾けるなんて凄い才能だよ」
つくづく感心した様子でピエールが評するのを聞いて、シュナイダーはハタと気付いた。
最近どこかで聴いたような曲だ。そう思ったのも道理、若林は最前ピエールが弾いた曲をアレンジして弾いていたのだった。曲にあわせてリズムを取りながら、ピエールが嬉しそうに呟く。
「若林、ボクの曲を気に入ってくれたんだ」
「…そうみたいだな」
若林の弾いているのがピエールの曲だと判った途端、シュナイダーはまたしても疎外感を覚えた。二人にはシュナイダーを除け者にしているつもりなどないのだろうが、シュナイダーにしてみれば自分と彼らの間にある溝を意識せずにはいられない。
自分も何か楽器を習っていたら、ピエールに引けを取ることなく若林と音楽談義で盛り上がれたのだろうかと、シュナイダーは臍を噛んだ。
曲を弾き終え席に戻ってきた若林を、ピエールとシュナイダーが拍手で迎え入れた。原曲の作者であるピエールは、殊に嬉しそうだ。
「素晴らしい演奏だったよ」
「ああ、ありがとう」
礼を述べてから、若林は申し訳なさそうにピエールに詫びた。
「悪かったな、勝手にお前の曲を作り変えちゃって」
「構わないよ。ボクには思いつかないタイプの改変だから、大いに刺激になった。こういうのもアリなんだな、ってね」
ピエールの返事を聞いて、若林の顔に笑みが広がる。楽しそうな二人の様子に、シュナイダーはまたしても自分が傍観者にならざるを得ないのを予感した。それを裏付けるかのように、若林はピエールに向かって話しかけている。
「だろ? ピエールは俺のプレーをイメージして作曲したって言ってたけど、俺はどっちかと言えばシュナの方が合ってると思ったんだ。だからシュナイダーがこっちに攻め込んでくる時の事を思い浮かべて弾いてみたら、自然と指が動いてああいう風に仕上がったってわけ。まぁ、原曲がいいからアレンジし易かったってのはあるけど…」
熱心に語りかけられ、ピエールはなるほどと言うように頷いている。だが傍にいるシュナイダーは、それほど落ち着いていられなかった。思わず椅子から腰を浮かし、若林を問い詰める。
「若林っ! 俺の事を考えながら弾いてたって…本当に!?」
若林の関心は、ピエールやピアノに向いてしまっていると思っていた。あの曲をアレンジして弾いたのも、ピエールに対する好意からだと思った。
だが、どうやらそうではないらしい。
(若林は、俺の事を想いながら曲を奏でていたんだ!)
眼を輝かせてテーブル越しに身を乗り出してくるシュナイダーの剣幕に圧されるように、若林はいささか身を引いた。
「本当だって。俺には、あの曲はシュナに相応しく思えたんだ。編曲が気に入らなかったんなら謝るけど…」
若林の困惑した表情を見て、シュナイダーは我に返った。感激が高じて、まるで不満をぶつけているような態度になっていたのに気付き、乗り出していた身体を慌てて椅子に戻す。
「い、いや。気に入らないんじゃなくって……えーと、その……うん。ありがとう」
急にしおらしくなってペコッと頭を下げるシュナイダーを見て、ピエールが声を上げて笑った。
それから間もなくして、座はお開きとなった。
シュナイダーの当初の目論見では、バーで雰囲気を盛り上げてそのまま若林を自分の部屋へお持ち帰りするのが今夜の最終目標だったのだが、ピエールがいたのではそうもいかない。三人の乗ったエレベーターが、世界選抜メンバーの泊まっている階に着いたところで、若林とはお別れになった。
「シュナ、ピエール、またな!」
笑顔で手を振る若林の姿は、エレベーターの戸が閉まってすぐに見えなくなる。高速エレベーターの階数表示ランプが階下へ向かって点滅していくのを、名残惜しい気分でシュナイダーが見送っていると、先に歩き出していたピエールが足を止めて不審気に尋ねた。
「シュナイダー、部屋に戻らないのか?」
エレベーターの前に立ち尽くしていたシュナイダーが、ピエールを振り返る。今夜はこいつのせいで、すっかり予定が狂ってしまった。しかしそのお陰で、若林からピアノ曲の生演奏というプレゼントを貰うことが出来たのだ。
この事をきっかけに、二人の仲を発展させていけるのではないだろうか?
「そうだ! 俺もピアノを習おう」
唐突なシュナイダーの決意表明に、ピエールは唖然とする。
「どうした、急に。酔ってるのか?」
「違う、本気で言ってるんだ。若林とピエールの話を聞いていたら、俺もピアノを弾いてみたくなったんでね」
ピアノが弾ければ、今夜のピエールのように若林と楽しく話が出来る。
そしてこの作戦の最終目標は、俺の作ったラブソングを若林に贈って、若林を口説き落とす事だ!
うっとりと目を潤ませてラブソングに聞き惚れている若林を想像して、シュナイダーの頬が緩む。自分が学生時代に音楽の実技で再試を食らったなど、彼はとうに忘れ果てているのだった。
おわり
あとがき
当サイトでは初登場のピエール、いかがだったでしょうか? ピエールと言われてまず浮かんだのが、シャワーシーンとオールスター戦のバラだったという私の記憶力は、明らかに何かが腐っています。そしてその次に浮かんだのが、「華麗なプレースタイル」とピアノでした。私は以前から「若林くんはお坊ちゃんだから、きっと子供の頃は習い事いっぱいで、ピアノとかもやってたんだろうな〜」と勝手な妄想を広げていたので、結果こういうお話が出来上がりました。
kikiさま、リクエストどうもありがとうございました! そして大変永らくお待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。