いつもなら終業チャイムと共にさっさと教室を出ていくシュナイダーが、今
日は何故か机から離れないのを見てカルツは不審に思った。近づいて様子を見てみると、何かを熱心に読みふけっている。教科書の類ではなさそうだ。
「おーい。帰らんのか?」
声を掛けても反応がないので、カルツは立ったままシュナイダーの肩越しに誌面を覗き込んだ。見ればそれは若者向けの情報誌で、今号は日本のサブカルチャーを特集しているようだ。日本のコミックからの抜粋らしきイラストが多数載っているのを見て、カルツは何となく察しをつけた。
「日本の特集記事を見て、ゲンさん攻略のヒントを探してんのか?」
「よく判ったな。見ろ。こいつは参考になりそうだ」
誌面に目を落としたままシュナイダーが答える。カルツも釣られるように記事を読み始めた。現在日本で流行っているものの、まだ海外向けのメジャー展開をしていないコミックを取り上げ、単なる紹介に止まらず人気の絵柄やストーリー傾向なども分析している。なかなか興味深い内容だったが、カルツの頭には疑問が浮かんだ。
「なぁ。今日本で流行ってるマンガの話題を振っても、ゲンさんは読んだことないんじゃね?」
「だろうな」
「じゃあ、参考にはならんだろうが」
いくぶん冷やかすような口調でそう言うと、ようやくシュナイダーが雑誌から顔を上げてカルツを見た。
「マンガの話題で若林の気を引くわけじゃない。このカコミ記事を読んでみろ」
促されてカルツはシュナイダーの指し示す部分に目を向けた。それは恋愛重視の女子向けコミックにおいて頻繁に見られる人気の描写を詳しく解説したもので、多くの女性読者がコミックの中だけでなく現実に起きてほしいと望んでいる憧れの恋愛シチュエーションだとまとめている。
その恋愛シチュエーションとは・・・・・・『壁ドン』
記事を読み進むうちにカルツが微妙な表情になっていくのに気付かないのか気にしないのか、シュナイダーのテンションは高い。
「注目すべきはここだ。『コミックの中だけでなく現実に起きてほしいと望んでいる憧れの恋愛シチュエーション』!どうだ!?」
「いや、どうって言われても・・・」
カルツは楊枝を噛みながら首をひねる。
「お前さん、『女子向けコミック』とか『女性読者』って単語、目に入ってるか?」
「当たり前だ。それがどうした」
「じゃ、ゲンさん相手じゃ意味ないって判るだろ」
「決めつけるな。日本の女子が憧れるなら、日本の男子だって憧れる可能性アリだ!」
「ないないない!それはない!!」
声を被せるようにシュナイダーの発言を否定したカルツは、雑誌を掴むとそれをシュナイダーの眼前に突きつけた。そこには小柄な少女を壁際に追い詰め、彼女の頭近くに片手をついて顔を寄せている少年の姿を真横から描いたイラストが載っている。
「よく見ろ、この絵!男女だから口説いているように見えるけど、男同士でやったらただのカツアゲ現場だぞ?」
「傍からどう見えようと、本人同士が恋愛モードなら問題ない」
「お前さんは恋愛モードだろうが、ゲンさんは違うだろ!」
向き合いたくない現実を告げられ、シュナイダーはムッとする。
「カルツ・・・お前、少しくらい親友の恋を応援しようという気は起きないのか?」
「応援したところで、あまりにも勝算が薄いだろ。ここは止めるのが親友ってモンだ」
「薄くない!俺は若林に嫌われちゃいないんだからな。むしろ親しくしてる方だから、何がきっかけで友情が恋愛感情に転ぶかわからんぞ」
カルツの手から雑誌を取り戻すと、それをカバンにしまいながらシュナイダーが席を立った。ようやく帰る気になったらしいシュナイダーの隣に並んで、カルツも歩き出す。しかし校外に出たところで、シュナイダーが家とは逆の方向へと進み始めたのでカルツは不審に思った。
「おい、帰るんじゃないのか?飯食わんのか?」
「今日はこのまま練習場に行く。若林がグラウンドに出てしまったら周りに壁がなくなってしまうから、あいつがロッカールームで着替えている間に『壁ドン』を試したい」
「・・・本気かよ」
根拠のない自信を基に無駄な行動力を発揮しているシュナイダーを放っておくのも気掛かりで、カルツはシュナイダーと共に練習場へと足を向けた。
この時間なら自分たちが一番乗りだろうと思いながらロッカールームに入ると、そこには既に若林がいて着替えをしていた。しかもあらかた着替え終わっていて、あと数分遅かったら若林はグラウンドに出ていただろう。待ち伏せするつもりだったが、むしろ滑り込みセーフのタイミ
ングだ。シュナイダーがホッとしたように呟く。
「・・・間に合った」
「お、シュナイダー! カルツも、今日は早いな」
笑顔を向ける若林に向かい、シュナイダーはズンズンと無言で近づく。さっそく「壁ドン」をやるつもりらしい。咄嗟にカルツはシュナイダーの背後から若林に向かって叫んでいた。
「おい、ゲンさん! お前さん、『壁ドン』って何のことか判るか?」
何だ、そりゃ?という回答が若林から返ってくれば、シュナイダーも我に返って玉砕を思い止まるだろう・・・という、カルツの親心である。実際、若林の答が気になるらしく、シュナイダーは足を止めていた。
「KABEDON・・・? あ、何だ。日本語の壁ドンか」
「知ってんのか!!」
仰天して思わず楊枝を取り落すカルツ。そして右手を力強く振り上げガッツポーズをとるシュナイダー。二人のリアクションにやや戸惑いながら、若林が言葉を続ける。
「そりゃ知ってるよ。サッカーやってる奴なら誰でも知ってる」
「・・・? 『壁ドン』を?」
「ああ。自分一人しかいない時は壁にボールを蹴って、跳ね返ってきたボールをまた蹴って・・・って練習するしかないだろ」
「ああ! それを『壁ドン』っていうのか!」
合点がいって大きく頷くカルツ。一方のシュナイダーはやれやれと首を振る。
「そうじゃなくて、他にも意味があるだろうが・・・」
「あ、そっち?」
シュナイダーはかなりの小声で呟いたつもりだったが、耳聡い若林は聞き逃さない。シュナイダーに向かって、若林が苦笑を浮かべた。
またまたカルツは違和感を覚えた。「壁ドン」は本当に日本では誰もが知ってる、性別問わずの憧れの恋愛シチュなのだろうか? いや、何か違う。そんな気がする。
「俺も話に聞いただけで、実際そんな事すんのかまでは知らないけどな」
「シュナイダーはゲンさんと『壁ドン』したいらしいぜ」
「俺と? 何で?」
不思議そうに尋ねられ、シュナイダーは焦る。カルツがこちらの思惑をあっさりとバラしてしまったせいで、不意打ちの壁ドンで若林の心を掴む作戦が実行不可能になってしまった。しかし何か答えなければ、若林に不審に思われる。
「あ、いや、その、別に・・・単なる好奇心だ。ドイツじゃ見ない行動だからな」
内心の動揺を抑えつつ、事もなげに応じた風を装う。若林は特に疑る様子もなく、シュナイダーに答えた。
「判った。じゃあ早速やってみるか。俺こっち行くから」
そう言って若林はロッカールームから出てしまった。後ろ手にドアをガチャリと閉められ、シュナイダーは慌てる。
「待て、若林!わざわざ部屋から出なくてもいいだろう!?」
すぐに若林の後に続くべく、ドアノブに手を掛けたその瞬間。
バーン!!
内開きのドアが、凄まじい勢いで外から開かれた。迫ってきたドアにしこたま顔をぶつけ、シュナイダーがその場にすっ転ぶ。すぐにドアの陰から若林が顔を出し、慌てた様子でシュナイダーに駆け寄った。
「悪い! 大声がしたからもういいのかと思って・・・これじゃ『壁ドン』じゃなくて『ドアドン』だもんな。ホントごめん!」
顔を抑えて座り込んでいるシュナイダーの傍に屈み込み、若林が頭を下げる。そんな二人の様子を見ながら、カルツは二度目の納得をしていた。
「なるほど。壁の向こうから大声や騒音が聞こえたら、抗議の意味で壁をドンと叩くわけだな」
(それも、思ってたのと違う・・・)
内心で不満を漏らすシュナイダー。しかし若林が心底申し訳なさそうにこちらを見ているので、その不満を若林にぶつけることは出来なかった。