シュナイダーは定刻に若干遅れて、練習場に到着した。そのずば抜けた実力から「皇帝」と称されているシュナイダーは、チームでも特別扱いされているため、彼が遅れてきても文句を言う者はいない。
とっくに練習を始めていたチームメイトたちに「おう」とか、「お前にしちゃ早いな」などと、声を掛けられながら、当然のように練習の輪の中に入る。
すぐにシュナイダーは、見慣れた練習風景の中に、重要なファクターが欠けている事に気付いた。
若林がいない。
自分ならともかく、真面目な若林が練習をサボるとは思えない。怪我でもしたのだろうか。そういえば昨日の練習試合で、相手選手と接触していたが・・・。
「なにキョロキョロしてんだよ。源さんならいねーぞ」
シュナイダーの胸中をあっさり見抜いたカルツが、声を掛けてきた。カルツは若林とかなり親しい。なにしろチームの守護神として一目置かれている若林を、ただ一人、渾名で呼ぶほどだ。事情を知っていそうなカルツに、シュナイダーは尋ねた。
「何かあったのか?」
「うん、今日も一番に練習に来てたんだけどな。日本から突然客が来たとかで、監督に断って、今日一日は休むことにしたらしい」
「日本から客? 誰だ?」
「恋人」
シュナイダーの顔つきが急変し、その青い目にあからさまな殺意が浮かんでいるのを見て、カルツは慌てて言い直した。
「冗談だよ! あの堅物がそんな訳ないだろ。見上コーチだよ」
「なんだ、見上か」
見上は研修のため二年間だけドイツに在留していた、日本サッカー協会の人間である。彼が教え子の若林をハンブルグJr.ユースチームに編入させたおかげで、シュナイダーは若林と知り合うことが出来たのだった。
しかし、研修を終えてとっくに日本に帰っていた見上が、今頃急にやって来るなんて・・・
まさか、若林を連れ戻しに来たのでは!?
にわかに不安に襲われたシュナイダーは、カルツに向き直って言った。
「俺は急用が出来た。もう帰るから、監督にそう伝えてくれ」
「帰るって・・・おまえ、今来たところじゃねぇか」
「あとは頼む」
そう言い残して、シュナイダーは本当にさっさと引き上げてしまった。
「よーし、次はシュナイダー! おい、シュナイダー、どこだ!」
折悪しく、シュート練習の番が廻ってきて、コーチがシュナイダーを大声で呼んだ。仕方なくカルツが答える。
「たった今、帰りました。ビョーキみたいでしたよ」
「病気? 仮病じゃないだろうな」
コーチは不審そうだったが、シュナイダーのサボりはいつものことなので、深く追求はしなかった。すぐに他の選手の名を呼び、練習を続行させる。
「ホントにビョーキなんだよなぁ。恋の病だけど」
誰にも聞こえないような小声で、カルツがぼそっと呟いた。
訪問者がシュナイダーだと知ったときの、若林の驚きはかなりのものだった。
「なんで、おまえがこんな所にいるんだよ? 練習は?」
「・・・体調が悪いので早退した。おまえも休んでいるというから、様子を見に来たんだ」
正直に言うと怒鳴られそうだったので、シュナイダーは咄嗟に嘘をついた。シュナイダーの言葉を鵜呑みにした若林は、気遣うように言った。
「俺のこと心配して来てくれたのか。悪かったな。俺は別になんともないんだけど、実は今日、見上さんが日本からこっちに来てるんだ」
知ってるさ、とシュナイダーは心の内で呟く。どんな用件で来たのか、確かめに来たんだから。
シュナイダーはいかにも具合が悪そうに、生気のない表情で言った。
「ちょっと中で休ませて貰っていいか? ここまで来たら、疲れちまった」
「俺、見上さんと話があるから、ついててやれないぞ?」
「気にするな。ちょっと休んだら、一人で帰れるから」
それならと若林は、シュナイダーを家に招きいれた。
若林はシュナイダーを居間のソファに寝かせてやると、もしどうしても気分が悪くなったら声を掛けるように、と言い残して部屋を出て行った。
若林の足音が遠ざかったことを確認して、シュナイダーはソファから起き上がった。
そっとドアを開けて辺りを窺う。廊下には誰もいなかったが、遠くからかすかに話し声が聞こえる。シュナイダーは話し声のするほうに向かった。
廊下の突き当たりにある、客間のドアは開けっ放しだった。声はそこから聞こえている。
・・・・・・まいったな。日本語だ。
若林からいくつかの単語を教わったことはあるが、ネイティブスピーカーの会話を聞き取れるほど熟知してはいない。
仕方なくシュナイダーは、ドアの陰から室内の様子を窺った。幸い、正面のテーブルを挟んで若林と見上が話している姿がよく見えた。
「じゃあ、一週間後には皆ドイツに来るんですね。楽しみだなぁ」
「うむ、彼らも源三に会えるのを、今から楽しみにしているよ」
久しぶりに見上に会い、懐かしい日本の様子を聞かされた若林は、とにかく嬉しそうだった。
「でも、どうして今日は急にいらしたんですか? 見上さんは忙しいから、電話でも良かったんじゃあ・・・?」
「電話じゃ話せない。ちゃんと源三の顔を見て、頼みたいことがあってな」
言いにくいことがあるらしく、見上が口籠もる。そんな気配を察したのか、若林の顔からも笑みが消える。
「何かあったんですか? 言ってください、見上さん」
「実は・・・全日本のメンバーがこっちへ来たときに、源三には憎まれ役をやって貰いたいんだ」
「・・・どういう意味ですか?」
若林の顔つきが厳しいものになった。いかにも納得できないという感じだ。
「全日本のメンバーも皆成長して、トップレベルの実力を身につけている。しかしそれは飽くまでも日本国内での話だ。正直言って、今のレベルでは世界に通用しない」
「・・・それで?」
「ドイツで予定されている遠征試合の、ひとつでも勝てるかどうか判らない。多分彼らは本場ヨーロッパサッカーの層の厚さに打ちのめされるだろう。その時、落ち込んで諦めてしまわないよう、皆を奮起させて欲しいんだ」
「そのために、憎まれ役をしろと?」
「そうだ」
若林が椅子を蹴って立ち上がった。バンッとテーブルに両手をつき、見上に詰め寄る。しかし見上はそんな若林の反応を予期していたようで、驚く気配はない。
若林は大声で言った。
「なぜ、そんなことをしなければならないんですか? 日向にしろ、若島津にしろ、あいつらは遠征試合に負けたくらいでへこたれるような弱虫じゃない。あいつらが来たら俺も合流して、国際Jr.ユース大会に出る。あいつらと力を合わせて、一緒に優勝してみせます!」
「無理だ」
「なぜ、そう言い切れるんですか?」
見上はタバコを取り出すと、ゆっくりと火を点け、ふぅーっと煙を吐き出した。それからおもむろに口を開く。
「いまやドイツナンバー1キーパーと呼ばれる源三が仲間に入ると思えば、当人たちに自覚はなくとも、おまえを頼る気持ちが生まれる。その分精進しなくなる。人間、真の成長は反発心や反抗心、そしてもう後がないという危機感の中から生まれるものだ。源三には頼りになる仲間ではなく、倒すべき敵の一人という役割を演じてもらいたいんだ」
「しかし・・・」
若林の興奮は少し収まったようだが、まだ納得しきれない様子だった。見上は厳しい表情で言葉を続ける。
「おまえが大空翼と会った時のことを、思い出してみろ」
「翼・・・?」
思い詰めた若林の表情が、ふっとゆるむ。
「そうだ。翼に負けたくないという気概が、あの時のおまえの成長に繋がったんだ。こう言ってはなんだが、翼との勝負に源三があっさり勝っていたら、それ以上のおまえの成長はなかったかもしれない」
「それは・・・そうかもしれないけど・・・」
若林は口をつぐんだ。見上もそれ以上は何も言わず、タバコをくゆらせている。二人の間に長い沈黙が訪れた。
・・・・・・・・・・駄目だ。さっぱり判らない。シュナイダーは頭を抱えた。
二人の会話の様子から、かなり深刻な話らしいと判る。人の名前やデンワ、ゼンニホンなどの短い単語も理解できる。しかし何について話しているのかが、全く判らない。
よし、推理してみよう。
そもそも何故、急に見上が若林に会いに来たのだろう。見上は若林の・・・。
「恋人」
ふいに、さっきのカルツの言葉が甦った。
違う。あれはカルツの冗談だ。見上は若林の元コーチだ。しかし・・・。
本当に、それだけか? 単なる師と教え子の関係にしては、親密すぎないか? 世の中には生徒と結婚してしまう女子高教師も多いし、見上は研修が終わるまでの二年間、この家に若林と二人きりで暮らしていた。
本当に恋人同士だとしても、おかしくない。なにしろ若林はあんなにキュートだし・・・。
だとしたら、さっきの会話は・・・。
「ほんとに、よくドイツまで来てくれましたね。俺、嬉しいです」
「おれもだ。長い間、一人きりにしていて済まなかった」
久しぶりに見上に会い、懐かしい日本の様子を聞かされた若林は、とにかく嬉しそうだった。
「会いに来てくれるなんて、思ってませんでした。見上さん、いつも電話だったから・・・」
「電話じゃ源三の顔が見えないじゃないか。それに、話しておきたいこともあるし」
言いにくいことがあるらしく、見上が口籠もる。そんな気配を察したのか、若林の顔からも笑みが消える。
「何かあったんですか? 言ってください、見上さん」
「実は・・・全日本で新しい恋人が出来た。おれと別れて欲しい」
「・・・どういう意味ですか?」
若林の顔つきが厳しいものになった。いかにも納得できないという感じだ。
「おまえの事は今でも愛している。しかし全日本のメンバーも皆成長して、魅力的になった。恋人のおまえとは離れ離れ、その一方、おれの周りには大勢の魅力的な少年たちがいる」
「・・・それで?」
「ドイツ在住のおまえとは、会うことすら難しい。わかるだろう、もうこれ以上関係を続けていくのは無理だ。おれはいつも一緒にいられる相手と、新しい恋を始めたい」
「そのために、別れてくれと?」
「そうだ」
若林が椅子を蹴って立ち上がった。バンッとテーブルに両手をつき、見上に詰め寄る。しかし見上はそんな若林の反応を予期していたようで、驚く気配はない。
若林は大声で言った。
「なぜ、俺が身を引かなきゃなんないんですか? 相手は誰ですか? 日向だか、若島津だか知らないが、俺はあいつらの誰よりもあなたを愛している! お願いです、別れるなんて言わないで下さい!」
「無理だ」
「なぜ、そんなひどいこと言うんですか?」
見上はタバコを取り出すと、ゆっくりと火を点け、ふぅーっと煙を吐き出した。それからおもむろに口を開く。
「いまやドイツナンバー1キーパーと呼ばれる源三は有名人だ。若いおまえには判らないだろうが世間体というものがある。おまえとおれが恋人同士だと判れば、大騒ぎになる。おれたちはもう別れたほうがいい。これは源三自身のためになることでもあるんだ」
「しかし・・・」
若林の興奮は少し収まったようだが、まだ納得しきれない様子だった。見上は厳しい表情で言葉を続ける。
「実は、おれの新しい恋人は大空翼なんだ」
「翼・・・?」
思い詰めた若林の表情が、ふっとゆるむ。
「そうだ。おまえも翼の愛らしさはよく知っているだろう。おれはもうあの子なしでは、やっていけない。おまえがおれの立場でも、きっと翼とこういう仲になった筈だ」
「それは・・・そうかもしれないけど・・・」
若林は口をつぐんだ。見上もそれ以上は何も言わず、タバコをくゆらせている。二人の間に長い沈黙が訪れた。
あのエロ親父!
許すまじ、大空翼!!
純真な若林を弄ぶとは、その罪万死に値する!
一発ぶん殴ってやろうと立ち上がりかけたシュナイダーだったが、二人が会話を再会したため、慌ててまた身を伏せた。
何本目かのタバコを灰皿でもみ消すと、見上は椅子から立ち上がり、若林に近寄った。うつむいて立ち尽くしている、若林の肩に両手を置き、声を掛ける。
「おれは今の全日本に、ヨーロッパサッカーの本当の実力を、そしてその層の厚さを判らせてやりたいんだ。どんな手だてを使ってもかまわん。頼む、源三。この役、引き受けてくれ」
若林は顔を上げると、キッパリとした口調で言った。
「はい。わかりました、見上さん。俺が憎まれ役になることで、本当にあいつらが成長できるなら・・・俺は喜んでこの役を引き受けます」
「源三、よく言ってくれた。・・・おや?」
見上は背をかがめて、若林の顔に自分の顔を近づけた。
「源三、顔に怪我しているのか?」
「ああ、昨日、練習試合で接触しちゃって・・・顔と背中をちょっと」
「背中も? 大丈夫なのか。ちょっと見せてみろ」
「はい」
若林は着ていた上着を脱ぎ、上半身裸になった。
シュナイダーはドアの陰から、改めて二人の様子を観察した。
何本目かのタバコを灰皿でもみ消すと、見上は椅子から立ち上がり、若林に近寄った。うつむいて立ち尽くしている、若林の肩に両手を置き、声を掛ける。
「おれはおまえが嫌いになったわけじゃない。こうするのがお互いのためなんだ。おまえだって本当は判っているだろう。たのむ、源三。おれと別れてくれ」
若林は顔を上げると、キッパリとした口調で言った。
「はい。わかりました、見上さん。それが本当にお互いのためになるというのなら・・・俺は喜んで身を引きます」
「源三、よく言ってくれた。・・・ご褒美のキスだ」
見上は背をかがめて、若林の顔に自分の顔を近づけた。
「源三、これでお別れだ」
「待ってください。最後にもう一度だけ・・・俺を抱いてください」
「わかった。それなら服を脱ぎなさい」
「はい」
若林は着ていた上着を脱ぎ、上半身裸になった。
怪我の具合を診てもらおうと見上に背を向けたとき、背後でギャッと悲鳴が上がり、人の倒れる気配がした。
「見上さん!?」
若林が振り返ると、頭にでっかいコブを作ってのびている見上と、開け放たれたドアから素早く逃げ去る人影がチラリと見えた。日頃は豪胆な若林だが、流石に目の前(後ろ?)で起きた傷害事件には仰天してしまい、パニックに陥った。
「おい、待てっ! あぁ、でも見上さんが心配だ。 救急車ぁ〜!!」
翌日のハンブルグJr.ユースチームの練習場。昂奮した面持ちで昨日遭遇した「家宅侵入通り魔事件」の事を、チームメイトに話しまくった若林だったが、その犯人が自分のすぐ隣でふむふむと話を聞いている「皇帝」だったとは、生涯気付かなかったという。
おわり
あとがき
これも元は「若林が顔の怪我をチームメイトに見てもらっているところを、シュナがキスと間違えてチームメイトをどつく」という、しょうむない4コマ漫画でした。アレンジし過ぎて意外に長くなりましたが、簡単に先が読めてしまうのが難点。