日はとっぷりと暮れ、ちらほらと街灯に灯が点り始めた。
ハンブルグJr.ユースチームが使用している広大な練習場も、今は人気がなくシンと静まり返っている。しかしよく見ると、一番端の面を使って練習を続けている三人の人影があった。この一角だけは、ボールを蹴る音や、掛け声が飛び交い、昼間と同じ熱気を帯びている。
ビシッと鋭い音がして、切れのあるシュートが放たれた。ゴール枠内ギリギリの所に上手く決まったかに見えたが、キーパーの反応は早かった。一瞬のうちにボールがゴールの外へと弾き出される。
「ちえっ、決まったと思ったのに」
カルツが残念そうに、楊枝を強く噛んだ。
「甘いぜ、カルツ。次、シュナイダー、頼む!」
キーパーの若林が促すと、シュナイダーは無言でシュート体勢に入った。
「HA!」
目にも留まらぬ高速のシュートが、空気を裂いて若林の左側を突っ切った。と同時に、ボールは既にゴールネットを揺さぶっていた。呆然として、背後に転がるボールを目で追う若林。
「ちくしょう! 全然、見えなかった!」
反応することすら出来なかった自分に腹を立て、若林は大声で怒鳴った。
「シュナイダー、もう一回だ! 今度は止める!」
「ちょ〜っと待った!」
カルツが二人の間に立ち塞がり、ストップをかけた。正規の練習が終わった後の特訓だったが、若林もシュナイダーもどんどんヒートアップして、一向に疲れを見せない。今はテンションが上がっているので気にならないのだろうが、これ以上の練習は明らかなオーバーワークだ。そろそろ切り上げた方がいい。
「もう真っ暗で、ボールなんか見えねえよ。俺たちだけでナイター設備使えないんだから、そろそろ止めようぜ」
体調を気遣って止めても『大丈夫』と切り返されそうだったので、カルツは全然別の理由で二人を止めた。若林は残念そうだったが、結局カルツの言葉に従った。
あちこちに散らばったボールを三人で拾い集め、後片付けをすっかり終わらせて練習場を出たのは、それから更に30分後のことだった。
「今日は特に遅くなっちまったな。二人とも、悪かったな」
三人連れ立って帰路につく途中で、若林が申し訳なさそうに詫びた。日頃からシュナイダーに居残り特訓に付き合って貰ってはいるが、今日ほど遅くなる事はなかった。今日はカルツも残ってくれるというので、ついつい熱が入って、時間の感覚がなくなっていたようだ。
「ワシは別に。何時に帰っても、家族にどうこう言われるわけじゃないし」
カルツの家はいい意味での放任主義で、息子を信頼して細かいことは注意しない方針だ。
「でも、シュナイダーは、家の人が心配してるんじゃないか」
若林が気に掛ける。
「うちも構わない。サッカーで遅くなるぶんには何も言われない」
日頃から表情に乏しいシュナイダーは、いつものように淡々と答える。
まだ少年だというのにその実力の高さから『若き皇帝』と称えられているシュナイダーには、他のチームメイトにはない独特の雰囲気が漂っている。それは凡人を寄せ付けない、選ばれた能力の持ち主だけが醸し出すオーラのようなものだった。監督ですら、シュナイダーに対してはいささか態度が改まる。常にチームの勝利に貢献しているシュナイダーは、明らかに特別な存在だった。
若林にとっても、シュナイダーは特別な存在だった。
日本では鉄壁だった『ペナルティエリア伝説』を、練習においてとはいえ、あっさり打ち破った相手は他ならぬこのシュナイダーである。これがライバル心を燃やさずにいられようか。シュナイダーはチームメイトだが、若林にとって一番に打ち倒したい目標でもあった。
しかしそれと同時に、いくら感謝してもし足りないくらいぐらいの恩を、若林はシュナイダーに感じていた。彼が自分の居残り練習に付き合ってくれるおかげで、若林の能力は目に見えて向上してきている。シュナイダーの協力がなかったら、短期間でここまで成長できたかどうか判らない。
若林はシュナイダーと一度腹を割って話し合い、自分の敵愾心と感謝の気持ちを、共にキチンと伝えておきたいと考えていた。しかしシュナイダーは他のチームメイトと違って寡黙なので、どうも話しかけづらい。毎日顔をつき合わせているのに、必要最低限の会話しかしていない気がする。
そうだ。今日なら話ができるかもしれない。
若林は考えた。保護者の見上は他所での研修に参加しているため、一週間ほど家を空けていた。なので、この時間に友達を呼んでも叱られることはない。今日なら話しやすいカルツが一緒だし、家に来てもらってじっくり話が出来るのではないだろうか。
「なあ、二人とも良かったら家でコーヒーでも飲んでいかないか。もう遅いから、無理にとは言わないけど・・・」
若林が提案する。カルツが話に乗ってきた。
「そうか、源さんは今のところ、ひとり暮らしなんだったな。行こうぜ、シュナイダー」
「・・・若林の家に・・・?」
「あ、無理に来てくれなくてもいいんだけど・・・」
「行こう」
シュナイダーが戸惑った様子だったので、若林はてっきり断られるのかと思った。だが意外にも了承してくれたので、三人は若林の家へと向かった。
二人住まいには広すぎる邸宅に招き入れられて、カルツは目を丸くした。シュナイダーももの珍しそうに室内を見回している。
「テレビでも見ててくれ。コーヒーと、食い物を何か持ってくるよ」
若林が二人を居間に案内して言った。カルツがテレビを一目見て、感心する。
「最新型だな。衛星放送も映るのか?」
「ああ、日本のサッカーの試合もバッチリだぜ」
ちょっと得意げに言いながら、若林はキッチンへ姿を消した。カルツはテレビの前のソファにどっかりと腰掛け、衛星放送の番組表を手に取った。
「面白い番組は、と。おい、シュナイダー、突っ立ってないで座れよ」
「おまえの家じゃないだろう」
「気にしなさんなって」
すっかりくつろいでいるカルツと対照的に、シュナイダーはそわそわと落ち着かなかった。カルツはシュナイダーの態度を不審に思った。
カルツとシュナイダーの付き合いは長い。カルツはシュナイダーの性質をよく知っていた。シュナイダーは繊細そうな外見とは違って、何があっても動じるということがない肝の据わった男だ。そしてもし動揺することがあったとしても、それを易々と態度に出すような男でもない。
そう思っていたのだが、初めての家に招かれたくらいで、落ち着きをなくすとは・・・?
でもまあ、深刻に追及することでもないな。
カルツはリモコンを手に取り、テレビの電源を入れた。スポーツニュースの専門チャンネルが、画面に映し出された。
「源さんらしいなあ」
それからリモコンを操作し、先程見つけたお目当てのチャンネルに設定する。画面一杯に、自分の乳房を鷲掴みにして喘ぐ全裸の女が映し出された。
「やったぁ!」
思わず膝を打って大笑いするカルツ。しかしシュナイダーは眉を顰めて、カルツに抗議した。
「おい、悪趣味だぞ。変えろ」
「いいじゃねぇの、たまには。源さんだって、喜ぶって」
「若林が、こんなもの見るか!」
「・・・・・・見たい」
ギクッとしてシュナイダーとカルツが振り向くと、二人の腰掛けたソファの真後ろに、飲み物とスナックを載せたトレイを持った若林が立っていた。視線が食い入るように、画面に釘付けになっている。
「うちのテレビで、こんなの見られるなんて、気付かなかった・・・」
カルツが笑いながら、若林の持つトレイを受け取り、若林を自分とシュナイダーの間、つまりテレビの真正面に座らせた。
「そうそう、それが正解。健康な男はこういうモノを見たがるモンなの。シュナイダー、嫌なら雑誌でも読んでろよ」
「いい。若林が見るのなら、俺も見る」
相変わらず憮然とした表情で、シュナイダーは画面の方に向き直った。若林は既に画面に夢中。何のために友人二人を家に招いたのかなど、すっかり意識の外に飛んでしまっている。カルツは部屋の隅に行き、電気のスイッチを切った。
「どうだ、源さん、暗い方が雰囲気出るだろう」
若林は無言で首を何度も上下に振った。その、いかにも邪魔をしないでくれといった様子に、カルツは思わず吹き出した。しかしシュナイダーは不機嫌そうに、横を向いてしまった。
こうして俄かにアダルトチャンネル鑑賞会が始まった。テレビの明かりのみが妖しく光っている暗闇の中で、口をきく者はいない。室内にはAV女優のあげる、そらぞらしい喘ぎ声だけが響き渡る。
自分で始めた事とはいえ、カルツはいささか退屈してきた。放任主義の家庭に育ったカルツは、こういうモノも結構見慣れている。いま見ている女優は、豊満というより肥満のクチでカルツの好みではなかった。演技も今ひとつでさっぱり興奮できない。ほかのアダルトチャンネルに変えようかとも思い、隣の若林がこの三流AVにどういう反応を見せているのか様子を窺った。
若林は身体を乗り出して、瞬きもせず画面に集中している。ときどき乾ききった唇を舐めたり、大きく唾を飲み込んだりする様子を見て、カルツはつい笑ってしまった。
(こりゃ、変えたら源さんに怒られるな)
そういえば、見るのを嫌がっていたシュナイダーはどうしているかなと、カルツは首を伸ばして若林の向こう側にいるシュナイダーを見た。
シュナイダーの視線も、釘付けだった。だが、シュナイダーの視線は画面を向いてはいなかった。
シュナイダーは隣の若林の、興奮した横顔をじっと見つめていた。
ふとシュナイダーが視線を若林から外した。カルツがこっちを見ていることに気付いたらしい。若林を挟んで、カルツとシュナイダーの目が合った。動揺したシュナイダーは、わざとらしく居ずまいを直して、テレビの画面を見ている振りをした。
(・・・・・・おい、待てよ。これって・・・・・・)
カルツの頭にあることが閃いた。この家に来てからの、シュナイダーのらしくない態度。妙にそわそわしてたり、アダルトチャンネルを嫌がったり。そうした一連の不審な態度の説明が、すべてつけられる。
まさか、あのシュナイダーが・・・と思いつつ、カルツはその考えを打ち消せないでいた。
「お、おれ、トイレ行ってくる!」
不意に若林が立ち上がった。気持ち前屈みになって、バタバタと部屋を出て行く。
カルツは席を立ち、部屋の明かりをつけた。
シュナイダーがクッションを膝に抱えて、気まずそうな表情を浮かべている。カルツはシュナイダーに単刀直入に尋ねた。
「おまえ、勃ったのか?」
「それは・・・こんなもの見ていれば・・・」
「見てなかったくせに」
「見てたさ」
「源さんをだろう」
シュナイダーが、口をつぐむ。やっぱりそうか。どうやら自分は、お互いよく知り尽くしていると思っていた幼馴染の、隠された一面を見つけてしまったようだ。
「いつから、好きなんだ?」
「・・・よくわからない。いつの間にか・・・いや、ずっと前からそうだったのかもしれない」
「この先どうするんだ? 告白したりすんのか?」
「カルツに関係ないだろう」
「関係ある。おまえも源さんもワシの親友だぞ。この先どうする気なのか、ちゃんと教えてくれ」
興味本位ではなく、心配してくれている故の詰問だと知り、シュナイダーは答える気になった。
「正直、自分でもどうしていいのか判らない。でも、若林を傷つけるようなことはしたくない。だから時間をかけて、若林に俺の気持ちを判ってもらえるよう、努力するつもりだ」
「源さんが、おまえの気持ちを拒絶したら?」
痛いところを、カルツはズバッと聞いてきた。長い沈黙のあと、シュナイダーは答えた。
「・・・・・・・・・・・・諦める」
「ホントに?」
「ああ」
「自棄になって襲ったり、しつこく付き纏ったりしないか?」
「絶対しない!」
シュナイダーが怒ったように言い切った。シュナイダーが、これほど正直に気持ちを顕わにするのは珍しい。シュナイダーの本気の想いが、痛いほど伝わってきた。
カルツは安心した。どうやら若気の至りでバカな事をすることはなさそうだ。それなら親友としてする事はひとつ。恋の行方を見守り、時に励まし、応援してやる事だけだ。
「先は長そうだな」
「・・・カルツ、おまえ『やめろ』とか言わないのか」
「シュナイダーがマジだって判ったからな。ワシはそっちの趣味はないけど、偏見もないし」
「そうか」
シュナイダーがホッとしたように息をついた。カルツが意地悪く付け加える。
「でも、源さんは判らんぞ。さっきの様子からして明らかに、その趣味はないし。アダルトチャンネルの事も判ったから、多分今夜から夢中で見まくるぞ」
「それは困る」
シュナイダーが慌てる。
「今まで、せっかくサッカーの練習に長時間付き合って、サッカー以外の事に目が向かないようにしてたのに」
「おまえ、源さんの特訓に付き合ってた、ホントの理由はそれか?」
「いや、最初はそういうつもりじゃなかったんだが・・・」
シュナイダーが言葉を濁す。
「まあ、いいや。それについちゃ簡単に対処できるからな」
そう言うと、カルツはリモコンを取り上げた。
その日の夜。いつものようにシャワーを浴び、いつものようにパジャマを着て、いつものようにベッドに入った若林だったが、いつものように眠りにつく事は出来なかった。
今日、友人たちと見た刺激的な映像が、瞼を閉じると鮮明に甦ってしまい、とても眠るどころではなかった。若林はベッドから起き上がった。
どうせ眠れないのなら・・・もうちょっと、あのテレビを見てみよう。
居間にあるテレビの前に座り込み、ドキドキしながらリモコンを操作する。しかしちゃんと合わせてある筈なのに、画面には何も映らない。
「おかしいなぁ」
若林は番組表を見て、他のアダルトチャンネルに設定し直した。やはり、映らない。試しにアダルト以外のチャンネルにすると、これはどれも映る。
「どうなってるんだ?」
家電製品の機能に疎い若林には、お子様を刺激映像から守る『チャイルドガード』設定が、カルツの手によって施されているとは、思いもよらない事だった。
どうしようもないので、若林はベッドに戻った。だが気分がもやもやして、一向に眠れない。
「明日、起きられるかなぁ、俺。カルツやシュナイダーは全然平気みたいだったけど、やっぱりこっちのヤツは進んでるんだな」
自分が奥手であるとは露ほども思わず、若林は身体を丸めてタメ息をついた。
一方、ここはシュナイダーの家。若林の想像とは違い、シュナイダーもまた眠れぬ夜を過ごしていた。親友のカルツにカミングアウトしてしまったのもショックだったが、カルツが普通に認めてくれた事もあって、それは大きな問題ではなかった。
問題は若林だ。あの明朗快活、健康を絵に描いたような若林が、AVを見て興奮しているところを見てしまった。
(若林も、あんな顔をするんだ・・・)
今日、間近で見てしまった若林の扇情的な様子が、瞼を閉じると鮮明に甦ってしまい、とても眠るどころではなかった。今までは後ろめたくて押さえ込んでいた、あんな妄想やこんな妄想が一気に湧き上がってきて歯止めが利かない。どうせカルツにはバレてしまっているし、という気持ちも妄想の抑制を甘くしていた。
カルツにはああ言ったけど・・・俺は若林を襲ってしまうかもしれない。
いけない事とは思いながら、シュナイダーは枕を抱えて妄想に耽った。
この日を境に、感情を顕わにしない冷徹な「若き皇帝」に、明らかな変化が訪れたのだった。
そして、ここはカルツの家。自分の部屋でくつろぎながら、ビール片手に好みのアダルトチャンネルを鑑賞するカルツ。すっかりオトナ・・・いや、オヤジである。そして今日の出来事をふと思い出す。
そういえば、勝手に若林の家のテレビにチャイルドガードを掛けてしまったが、あれってもしかして見上が見てるんじゃないのか?
若林が見上に、身に覚えのない事で叱られている様子を思い浮かべて、カルツはゲラゲラ笑ってしまった。
翌日から、クールだと思っていたシュナイダーの暴走が始まり、自分がそれに振り回されることになろうとは、予想だにしていなかった。
おわり
あとがき
シュナイダーが妄想全開になったきっかけと、カルツがシュナイダーの気持ちを知ったきっかけ、こういう理由です。この後、一連のバカ小説に続いていきます。下書きの段階ではもっと下品でバカな内容だったんですけど、パソコン使っているすぐ隣の部屋で両親がのんびり時代劇を見ていたため、いつ通りがかりに画面を覗かれるかと気が気でなく、こんな感じに落ち着きました。