謎の男

 カルツが電話を取ると、相手はシュナイダーだった。毎日クラブの練習で顔を会わせているので、電話のやり取りをすることなど滅多にない。よっぽどの急用らしい。シュナイダーが電話口の、向こうで滅茶苦茶暗い声で話し始めた。
 『・・・・・・若林がいない』
 「源さんが? どうして?」
カルツにとっても初耳だった。確かに今日から三日間はクラブの練習が休みだが、だからといってどこかに行くような話は若林はしていなかった。若林は正規の練習が休みでも、常に自主トレを欠かさない。そしてそのトレーニングにはシュナイダーが付き合うのが常だった。てっきり今回もそうやって過ごすのだと思っていたが・・・・・・。
 『さっき、若林から電話があった。日本に帰る事にしたから、明日からの自主トレには付き合ってくれなくていいと』
 「なんだよ、それじゃただの帰省じゃねえか」
まるで失踪か誘拐のようにシュナイダーが深刻ぶるから、何事かと思えば何のことはない。カルツは安心して、電話を切ろうとした。
 「源さんの事だから、三日後にはちゃんと戻ってくるだろ? じゃあな」
 『待て、話を聞け! ただの帰省じゃないんだ!』
シュナイダーの必死の声に、カルツは受話器を耳に当てなおした。シュナイダーが電話の向こうでまくしたてる。
 『若林はプロになるまで日本に帰らない、と言っていただろう? だから不思議に思って、その事を聞いてみたんだ。そしたら、なんて答えたと思う?』
 「さあ?」
 『ジョンが怪我して心配だから特別に帰るんだ、と答えた』
 「ふーん」
 『ジョンって、誰だ!?』
 「ワシが知るかよ。源さんに聞かなかったのか?」
 『聞こうとした時には、もう電話が切れていた。カルツ、本当にジョンが何者なのか、若林から聞いたことはないか?』
シュナイダーの声は、今にも泣き出しそうに取り乱していた。『ジョン』は明らかに男の名前、若林に片想い中のシュナイダーにしてみれば、気が気ではないだろう。事情は判ったものの、カルツもジョンというのが何者なのか、若林から聞いた事はなかった。
 仕方ないので、推測をしてみる。
 「怪我したと聞いて駆けつけるくらいだから、家族か親戚じゃないのか?」
 『日本人の名前じゃないぞ』
 「じゃ、仲のいい友だちか・・・」
 『仲のいいって、どれぐらい親しいんだ!? まさか恋人か?』
シュナイダーが懸念をハッキリ口にする。カルツは呆れて反論した。
 「あのサッカー以外興味のない朴念仁が、日本にガイジンの恋人を残していると思うか?」
 『それもそうだが・・・じゃあ、そのジョンが友だちだったとして、久しぶりに会った若林を見て、迫ってこないとは限らないだろう?』
おまえじゃあるまいし、と言いたいのをぐっとこらえて、カルツがフォローしてやる。
 「ジョンは怪我人なんだろう。源さんが怪我人に押し倒されるもんかよ」
 『しかし・・・もし、ジョンの怪我というのが、若林を呼び寄せるための嘘だとしたら・・・』
 「そこまで疑ったら、話が進まないぞ」
 『だが、有り得ないことじゃない! 若林の為なら大抵の男は・・・』
妄想モードに突入してあれこれ気を揉んでいるシュナイダーに、何を言ってやっても無駄だ。カルツは適当にあしらって、電話を切ってしまった。
 それにしても、確かに気になるといえば気になる。若林が話す日本の話題といえば、やはりサッカーに関連したものが多い。そこでツバサ、ミサキ、ヒューガといった名前は聞いたことがあるが、ジョンというのは覚えがない。ということは、ジョンがサッカーの仲間やライバルでない事だけは確かだ。
 だが、それ以上の推測は情報不足のため不可能だった。カルツは首をひねる。
 「ジョンって、誰だ?」

 「良かった、ジョン。大した事なくて」
愛犬の首を抱き、若林は心底ほっとしていた。トラックにはねられ、もう危ないかもしれないと聞いて、矢も盾もたまらず帰国してしまった。しかしそれは渡独したきり何年も帰ってこない息子を呼び戻すための、母の策略だったようだ。
 ジョンがはねられたのは事実だが、相手はトラックではなく速度を落としたスクーター。胴に包帯を巻かれて多少ぐったりしてはいるものの、命に別状はなかった。
 いつもは庭で飼われているジョンだったが、怪我が治るまで特別に家の中に入れてもらっている。広い居間でジョンの身体を優しく撫でてやっていると、母が紅茶を淹れて運んできてくれた。若林が早速、抗議を始める。
 「ひどいよ、母さん。ジョンが危ないなんて、嘘をつくなんて」
 「あら、あなたがいけないのよ。そりゃあ、『プロになるまで帰らない』とは言っていたけれど、本当に一度も帰ってこないなんて思わなかったもの」
お正月くらい戻ってくると思って待ってたのよ、と冗談ぽく母は愛息子をにらんだ。テーブルにカップを並べると、ソファに掛けて、優雅な身振りでカップを口もとへ運ぶ。
 「だから、ジョンが怪我した時、ちょっぴり大袈裟に言ってみたの。ジョンだって源三さんがいたほうが、きっと怪我の治りが早いわよ」
くうぅ〜んとジョンが鼻を鳴らす。若林が苦笑する。
 「まぁ、帰ってきちゃったんだから、今更言ってもしょうがないか。でも母さん、俺が帰国した事、翼たちには言わないでくれよ」
今回帰国したのは飽くまでも特別。『プロになるまで帰らない』と誓った気持ちは変わらない。懐かしい翼たちに会って、決意が揺らぐのが怖かった。
 母も可愛い三男坊の頑固なところはよく判っている。にっこり笑顔で必ず内緒にすると約束してくれた。
 ひとしきり母とのティータイムのお喋りを楽しむ。やがて母が空いたカップを片付けるため席を外し、ジョンと二人(?)きりになった。ふとサイドテーブルに載った電話が目に入り、若林は出立前に掛けたシュナイダーへの電話を、自分の都合で慌しく切ってしまったことを思い出した。
 「そうだ、シュナイダーの奴、何か俺に聞きたがってたんだよな。急いでたんで途中で切っちゃったけど・・・。掛けなおしたほうがいいな」
若林は洒落たアンティークデザインの電話機に手を伸ばした。

 『若林か! 無事か! 今、どこにいる!?』
勢い込んだシュナイダーの声が耳に飛び込んできて、若林は思わず受話器を耳から離した。
 「シュナイダー、なに慌ててるんだよ。無事に実家に着いたに決まってるだろう」
 『だって、おまえ・・・その・・・ジョンには会ったのか?』
シュナイダーがジョンの心配をしてくれている思うと、若林は嬉しくなった。
 「ああ、勿論。怪我も思ったより軽かったよ。今、俺の隣に座ってる」
 『隣に!? おまえの家にいるのか!?』
 「ああ、怪我が治るまで特別にな」
大人しくお座りをしているジョンを見ながら、シュナイダーに普段はジョンを庭で飼ってる事まで話したかな、と若林は考えた。知ってるんだから、話したんだな、多分。
 不意にジョンが身体を乗り出して、前足を若林にかけてじゃれついてきた。受話器から自分の名前が聞こえたのに気づいたらしい。さかんに若林の持つ受話器に鼻をつけて、嗅ぎまわっている。若林が笑いながら、ジョンを叱る。
 「駄目だよ、ジョン。話が出来ないだろう」
受話器を隠すようにすると、ジョンは今度は若林の顔をなめはじめた。
 「あはははは、やめろって。くすぐったいよ」
笑いながらジョンの舌から顔をそらす。手にした受話器からシュナイダーの怒鳴り声が聞こえているのに気づき、若林は慌てて受話器を耳に当てる。
 『若林! 若林! 聞いてるか! 何やってるんだ!?』
 「あー、悪い悪い。急にジョンが顔をなめるもんだから、くすぐったくて・・・こら、やめろ!」
ジョンが一向に言うことを聞かないので、若林は電話の方を切る事にした。
 「悪い、シュナイダー。、また後で掛けるよ・・・こらっ! 変なところなめるなよ!」
耳をなめられて、若林は首をすくめた。電話を切ると、若林はジョンの頭をわしわしと撫でてやった。ジョンは大人しくなり、身体を床に伏せる。
 「よしよし、構ってほしかったんだな」
怪我のせいで散歩や運動も思うようにいかない。いつもは元気に吠えるジョンが、今日は鼻を鳴らすだけでずっと黙っている。
 ジョンにもストレスが溜まっているのだろうと思い、若林は日本にいる短い間だけでもジョンの傍についていてやろうと決めたのだった。

 ジョンの正体をあれこれ憶測して苛々していたシュナイダーは、若林からの電話に文字通り飛びついた。
 「若林か! 無事か! 今、どこにいる!?」
病院か? ジョンの家か? ジョンは本当に怪我してるんだろうな? 聞き出したいことは山ほどあったが、若林の声に遮られた。
 『シュナイダー、なに慌ててるんだよ。無事に実家に着いたに決まってるだろう』
平然と答えられて、シュナイダーは言いよどむ。
 「だって、おまえ・・・その・・・ジョンには会ったのか?」
とりあえず、一番気になっていることを聞いてみると、若林の明るい声が返ってきた。
 『ああ、勿論。怪我も思ったより軽かったよ。今、俺の隣に座ってる』
シュナイダーの頭に血が昇った。さっき若林は自分の家にいると言った。家族でもない(日本人の名前じゃないから、それだけは確かだ)ジョンが、なんで若林の家に・・・若林の隣に座っているんだ!
 「隣に!? おまえの家にいるのか!?」
 『ああ、怪我が治るまで特別にな』
特別って・・・なんでその男にそこまでしてやるんだ! ジョンって一体、何者だぁ〜!!
 「おい、若林! ジョンっていうのは・・・おい!」
急に若林の声が遠のいた。代わりに聞こえるのは妙に荒っぽい、嗅ぎまわるように息遣い。
 おい、まさか、コレがジョンか!?
シュナイダーが耳に受話器を押し付けていると、息遣いが遠のいた。若林の声もかすかに聞こえる。日本語なので意味は判らないが、なんだかえらく楽しそうだ。電話中なのを忘れてしまったかのように、はしゃいだような笑い声をあげている。シュナイダーは必死で怒鳴った。
 「若林! 若林! 聞いてるか! 何やってるんだ!?」
 『あー、悪い悪い。急にジョンが顔をなめるもんだから、くすぐったくて・・・こら、やめろ!』
 顔を舐める!?
シュナイダーの脳裏に、野性味溢れるマッチョな男が若林を膝に抱きかかえて、顔や首すじをいやらしく舐め回している構図が浮かんだ。
 『悪い、シュナイダー。、また後で掛けるよ・・・こらっ! 変なところなめるなよ!』
 変なところってどこだあぁ〜!!
シュナイダーが聞き返そうとした時には、既に電話は切れていた。

 シュナイダー家の電話は旧式なので、直前に掛かってきた電話の番号を記録しておく事は出来なかった。もちろん、あらかじめ若林の実家の電話番号を聞いているという事もなかったので、こうなるとシュナイダーから若林に連絡する事は出来なかった。
 真実を突き止める術を失ったシュナイダーは、怒りのぶつけどころを幼馴染のカルツに求めた。さっそくカルツの家に電話を掛け、先刻の若林との会話をカルツに話す。
 嫉妬で邪念湧きまくりのシュナイダーと違い、カルツは極めて冷静だった。激昂するシュナイダーから一連の会話を聞かされたカルツは、ある仮説を思いついた。
 『なぁ、シュナイダー。ジョンってペットじゃねーの? 犬かなんか』
 「犬?」
 『そう犬だと思えば、話の辻褄が合うぜ』
 「・・・・・・犬?」
 『そう』
 「・・・・・・若林が、犬相手にそんなことするか!!」
 『違あぁーう!!』
どこまで妄想がたくましいんだと呆れながら、カルツは自分の仮説を詳しく説明してやった。
 その仮説は100%真実に合致していたので、説得力があった。シュナイダーも流石に納得したようだ。
 「全く若林も紛らわしいことを・・・人騒がせな奴だ」
それはおまえだと返したいのをこらえて、カルツが受け流す。
 『誤解が解けたんだから、いいじゃねぇか。じゃあ、もう切るぞ』
カルツとの電話を切り、シュナイダーは思った。
 ペットにまで嫉妬していたとは・・・
 どちらかといえば、若林を俺のペットにしたいところだがな
シュナイダーの脳裏に、全裸で首輪を繋がれた若林の姿が浮かんだ。首輪にぶら下がったネームプレートには『GENZO』の文字。そして鎖を持っているのはもちろん自分。
 妄想はまだまだ続く・・・・・・。
おわり
あとがき
 源さんがジョンを飼っている事を話していなかったら、こういう誤解もあるのではないかと・・・。でもシュナがサウザー飼ってるから、きっと源さんが「俺も犬飼ってたよ」とか話しかけて、愛犬家トークが弾んでそうな気がします。
 最初源さんが帰省する期間を二日間と書いて、ドイツ〜日本、いやハンブルグ〜静岡を二日で往復するのは不可能だとご指摘を頂きました。移動だけで丸二日かかるそうです・・・知らなかった(←真性バカ) 慌てて三日に直しました。
 Uさま、W・Aさま、貴重なご指摘、どうもありがとうございました。