通り雨

 雨は突然に降り出した。
 ついさっきまで晴れ渡っていたのに、ちょっと雲が出てきたかと思うと、たちまち暗雲に青空が覆われ、土砂降りになった。
 この予期せぬ雨に降り込まれた人々は、みな頭を庇いながら雨宿り出来そうな場所を求めて小走りに移動を始める。
 通りには人影はすっかり見えなくなった。
 たまたま母の遣いでマーケットに来ていたシュナイダーは、この雨に濡れずに済んだ。
 この急激な降り方は通り雨だろう。雨が止むまで、このままマーケットの中にいよう。
 買い物を終えて丁度店を出ようとしていたところだったが、シュナイダーは踵を返して店の奥へと歩み始めた。
 「シュナイダー!」
後ろから呼び止められて、シュナイダーは振り返った。マーケットの入り口付近は、雨宿りの為に駆け込んできた人々でごった返していた。その中に思いもよらない顔を見つけて、シュナイダーは驚きを隠せなかった。
 こんなところで、こいつに会えるなんて!
 「若林・・・・・・ずぶ濡れだな」
 「ああ、丁度降られちまった。ついてねぇよ」
若林は屈託なく笑った。若林の黒髪は雨に濡れてぺったりと貼りついた様になり、顔や首筋に幾筋もの水滴を垂らしていた。着ているものも同様で、上着などは裾を絞れるほどにぐっしょり水分を含んでいる。濡れたズボンは足にまとわりつき、若林の脚のラインを際立たせていた。
 ・・・・・・なんか、水に濡れた姿って色っぽいなぁ・・・・・・
シュナイダーは密かに興奮を覚えた。マーケットの入り口付近でブツブツ言いながら身体を拭いている他の雨宿り連中は、どんなに濡れていても何とも思わないのに、やはり若林は特別だ。シュナイダーはしばし若林の姿に見惚れた。
 「あ、もう明るくなってきた」
まだパラパラと雨は降っていたが、先程ほどひどい降り方ではない。そして空は若林の言うとおり、徐々に明るさを取り戻していた。やはり通り雨だったようだ。
 ほどなくして雨はすっかり上がり、晴れ間が覗いた。店内にたむろしていた雨宿り客は、買い物もせず当然のように店から出て行き始めた。若林がシュナイダーに言う。
 「じゃ、俺も行くよ。またな」
 「ちょっと待て!」
別れが惜しくて、シュナイダーはつい若林を呼び止めてしまった。試合や練習などのサッカー絡みでなく、こうして街でバッタリ若林に会うのは初めてのことだ。シュナイダーは今日の出会いに、何か運命的なモノを感じた。
 今日は何かが起こる。きっと何かいい事がある。このまま若林を行かせてはいけない。
 「何か用か?」
若林が問い返す。深く理由があってのことではないので、シュナイダーは一瞬言葉に詰まった。しかし目の前の若林を見て、すらすらと「用」を思いついた。
 用・・・・・・用・・・・・・用は、これだ!
 「その格好じゃ風邪を引く。うちがすぐ近くだから、寄ってシャワーを浴びて着替えて行け」
実にもっともらしい口実だった。しかし若林は眉をしかめて遠慮を見せた。
 「いいよ。俺ん家だって、そんなに遠くねえし」
 「だが、俺の家の方が近い。おまえは帰り着くまで、その惨めったらしい格好で街を歩くつもりか?」
半ば強引に説き伏せて、とうとうシュナイダーは若林を自宅に連れて行く事に成功した。若林は笑みを浮かべて、シュナイダーの厚意に礼を言った。
 「なんだか悪いな」
 「気にするな。俺とおまえの仲じゃないか」
その「仲」を今日はぐぐっと親密に深められるかもしれない。若林を伴って帰宅したシュナイダーは、浮かれたような気分で玄関のドアを開けた。
 「お帰り、カール。雨に降られなかった?」
優しい声に迎えられて、シュナイダーは我に返った。
 そうだ、家には母さんがいるんだった! いくらなんでも母さんがいる傍で、あまりおかしな真似は出来ない。どうしよう・・・?
 「あら、お友達? びしょ濡れじゃないの」
 「初めまして、若林源三です。カールにはいつも世話になってます」
礼儀正しく、若林が母に挨拶をした。若林の口から「カール」と自分の名前が発せられるのを聞いて、シュナイダーは胸がときめいた。
 ああやって、いつも名前で呼んでくれたらいいのに・・・・・・。
自分の世界に浸っているシュナイダーをよそに、若林と母の会話は続く。
 「あなた、さっきの雨に降られたのね。どうぞ、うちのシャワーを使ってちょうだい。カールも濡れたんだったら、一緒にシャワーを・・・」
 一緒にシャワー!? 若林 と一緒に!!
シュナイダーの頭に血が昇った。
 母さん、素晴しい提案だ! 俺は母さんの子で本当に良かった!!
 「カールは濡れてませんよ」
 「あら、ホントだ。あんたって子は全く要領がいいんだから!」
若林と母親が、声を揃えて笑った。それとは逆に、シュナイダーの気持ちは急速にしぼんでいった。
 母さん、人を喜ばせておいてひどいよ・・・・・・。
 「バスルームはこっちよ。いらっしゃい」
 「あっ・・・えーと・・・俺、やっぱりいいです。よく考えたら着替えもないし」
若林が言葉を濁して断ると、母が笑顔でいなした。
 「なにを遠慮してるの。そんなの、カールのを貸すわよ」
再びシュナイダーの興奮が高まった。
 若林が俺の服を・・・・・・下着を身につけるのか!?
 よし、そうなったら若林を家まで送って行って、若林が洗濯なんぞしないうちに、すぐに着てるものを返して貰おう。そして若林が着た服は、そのままずっと洗わずにとっておいて・・・・・・!
 「あら、でもカールの服じゃサイズが合わないわね。大丈夫、洗濯してすぐに乾燥機にかけるから、お茶でも飲んでゆっくりしている間に乾くわよ」
 「すみません、お手数お掛けして」
 「いいのよ。カールのお友達ですもの」
若林と母親は再び笑いあった。楽しそうな笑い声を耳に、シュナイダーは恨めしげに母を見る。
 母さん・・・・・・まさか、わざと言ってるんじゃないだろうね!?
 「それじゃあ、お借りします。シュナイダー、あとでな」
律儀に断ってから、若林がバスルームへと姿を消した。シャワーの音が聞こえてくるのを確かめてから、母が脱衣所に入り若林の服を持ち出す。手際よく洗濯機を動かす様子を横目に見ながら、シュナイダーはそっと溜息をついた。
 母さんが留守だったら、俺が若林の面倒をあれこれ見て、ついでにあっちの面倒も色々と・・・・・・ああ、全くついてない。
 「ただいまぁーっ! 母さん、今すっごい雨が降ってたのよ!」
元気のいい声がして、玄関のドアが勢いよく開いた。妹のマリーだ。さっきの雨に濡れたらしく、髪も服もびしょびしょだった。愛娘の有様を見て、母親が声高に言った。
 「あらあら、大変! 早くお風呂に入りなさい。今、カールのお友達も丁度入ってるから」
 「はーい!」
素直に脱衣所に駆け込もうとする妹を、シュナイダーはスライディングタックルで強引に取り押さえた。床に顔をぶつけたマリーが、大声で泣き叫ぶ。
 「いったーい! ひどいよ、お兄ちゃん! なにすんのよぅ!?」
 「馬鹿! よく考えろ。俺の友達だぞ、男だぞ! 男と風呂に入る気か!!」
あたかも妹の身を心配しているかのような言葉だったが、シュナイダーの本音は勿論『俺が入れないのに、マリーに若林と風呂に入られてたまるか!』だった。しかしマリーは動じない。
 「なにがいけないの? マリーはお兄ちゃんとお風呂に入ったことあるよ?」
 「俺は兄だが、若林は赤の他人だ。第一、一緒に風呂に入ってたのは、マリーがもっと小さい時だろう。もう子供じゃないんだから、女性としての恥じらいを持て!」
 兄弟喧嘩を見咎めて、母親が仲裁に入る。
 「ちょっとちょっと! 何をもめてるのよ? マリーはまだまだ子供でしょ。どうって事ないわよ」
母親が事も無げに言い放つのを聞いて、シュナイダーは苛立った。
 駄目だ。このままではマリーに先を越されてしまう。こうなったら・・・・・・!
シュナイダーはずかずかと脱衣所に入ると、浴室に向かって大声で怒鳴った。
 「若林! 妹がシャワーを使うんだ。悪いが、今すぐ出てくれ!」
 「えっ? そうなのか、わかった!」
中の水音が止まり、すぐにバスルームの戸が開いて、若林が全裸のまま姿を見せた。傍で目を丸くしているシュナイダーの存在など気にも止めない様子で、用意されていたタオルを手に取り大慌てで身体を拭く。
 「シュナイダー、おまえの後ろにあるバスローブ着ていいのか?」
 「えっ・・・あ、ああ。ほら」
シュナイダーに手渡されたバスローブを素肌にまとうと、若林が言った。
 「よし、OKだ。待たせたな、シュナイダー」
 「・・・・・・あ、うん。いや、こっちこそ急かせて悪かった」
若林はさっさと脱衣所を出ると、母に改めて礼を言い、初対面のマリーに挨拶をした。マリーもニコニコと挨拶を返す。
 「はじめまして、カールの妹のマリーです。よろしくね」
 「さぁ、マリーも早くシャワーを使いなさい」
 「はーい」
脱衣所の前まで行ったマリーは、ドアが中から施錠されている事に気付き、首を傾げた。
 「お兄ちゃん? 中にいるのー?」
中からは慌てたようなくぐもったような声が返ってきた。
 「あ、あぁ、すぐ、終わるから・・・い、いや、あの、すぐシャワーを浴び終わるから、向こうで待っててくれ!」
 「はぁーい?」
不思議に思いながらも、マリーは大人しく母たちのいる部屋へと引き返した。妹の立ち去った気配に胸を撫で下ろし、シュナイダーは先刻見た若林の刺激映像を繰り返し繰り返し思い浮かべて、しっかりと脳裏に焼き付けるのだった。

 居間では、マリーがシュナイダーに追い返された事を知り、母親が息子の不可解な行動に不審を抱いていた。マリーの身体をタオルで拭いてやりながら、母が独り言のように言う。
 「カールは雨に濡れてないのに、マリーより先にお湯を使うなんてどういうつもりかしら?」
 「あ・・・・・・多分それ、俺のせいです」
若林が口を挟む。母とマリーが顔を上げて若林を見た。
 「多分カールは、マリーちゃんの事がとても大事なんですよ。だから赤の他人の俺が入った後の風呂に、マリーちゃんを入れたくなくて、ああしてるんだと思います」
 「・・・・・・そうなのかしら?」
ちょっと、いや、かなり不自然な気がしないでもなかったが、他に理由が思いつかないので母は無理に納得したようだった。
 やがて妙にスッキリした顔でシュナイダーが浴室から出てきた。そのあと、ようやくマリーもシャワーを使い、落ち着く事が出来た。シュナイダー家のみんなと楽しくおしゃべりをしながら、お茶を振舞われている間に、洗濯と乾燥が終わった。若林は自分の着衣を身につけると、シュナイダー家の人々に丁寧に暇乞いをした。
 「今日はすっかりお世話になりました」
 「いいのよ。また来てちょうだいね」
 「ゲンゾー! また遊びに来てね!」
礼儀正しく、明るい性格の若林は僅かの時間に母とマリーの心をしっかり掴んでいた。そんな様子をシュナイダーは内心嬉しく思う。
 「じゃあな、シュナイダー。また練習で」
 「ああ、またな」
軽く手を振って、若林は帰っていった。若林を見送りながら、シュナイダーは思った。
 やっぱり今日はいい事があった。
 若林を家族に紹介できたし、お互い相手を気に入ってくれたようだ。
 そしてなにより若林の全裸姿を間近に見られたし・・・!
 「恵みの雨だったな」
ポツリと呟いたあとニヤニヤ笑いを浮かべ続けるシュナイダーを、母と妹は不気味に思い、顔を見合わせた。
おわり