る るすばん

 「大人しく寝ているのよ。また、ぶり返したら元も子もないんだから」
母はバッグを片手に慌しく身支度を整えながら、パジャマ姿で不貞腐れている息子に釘を刺した。
 「判ってる」
 「薬もちゃんと飲みなさい。勝手に飲むのを止めないでね」
 「判ってる」
 「学校にもサッカーのクラブにも、病欠の連絡をしてあるから。勝手に出歩くんじゃないのよ」
 「判ってるったら! 母さん、早く行かないと仕事に遅れるよ」
しつこい母の物言いを疎ましく思いながら、カール・ハインツ・シュナイダーは言い返した。鏡に向かって、髪型を直しながら、母は更に口を挟む。
 「じゃ、もう行くからね。くれぐれも・・・」
 「判ってるってば! 行ってらっしゃい!」
なおも何か言いたげな母を玄関の外へと送り出し、シュナイダーはドアを閉めた。
 一昨日妹に伝染された風邪が治りきらず、昨日に続いて今日も休む羽目になってしまった。因みに風邪を持って来た妹のマリーはとっくに元気になっていて、今日も学校に行っている。
 シュナイダーの場合は、昨夜全快したと思って、油断して薬を飲まなかったのがよくなかったらしい。夜半から今朝にかけて咳がぶり返してしまい、慌てて薬を飲んだ。そして今度こそ治ったと思うのだが、母はシュナイダーにあと一日の安静を命じたのだった。
 母は仕事を休んで息子を医者に連れて行こうとしたのだが、治ったも同然の風邪で医者に掛かるのは、シュナイダーには抵抗があった。当人にしてみれば、いつもどおり学校やクラブに行ってもいいくらいなのだ。
 シュナイダーは、今度こそ薬を飲んで大人しく寝ているから、と母を説得した。シュナイダーにとって幸いな事に、今は母の職場の繁忙期であり、休みにくい時期に連休を取りたくなかった母は、渋々ながらシュナイダーの言い分を聞いてくれた。そしてシュナイダーにくどいほど念を押しながら、やっと仕事に出掛けてくれたのである。
 「さて・・・薬は飲んだし、あとは寝るだけか。しかし、ちっとも眠くないな」
寝室に戻ってベッドに腰掛けたものの、寝そべりはせずシュナイダーは部屋を見回した。
 「昨日はこの部屋に、若林が来てくれたんだよなぁ・・・」
若林が来ると判っていたら、もう少し部屋を片付けておくんだった。とっちらかった室内を見ながら、シュナイダーは後悔する。
 「待てよ。もしかして、今日も見舞いに来てくれるかもしれないぞ」
どうせ眠れないのだから、部屋を掃除しよう。シュナイダーはそう思い、腰を上げた。
 「しかし、どこから手をつけたらいいものか・・・」
大事な物もゴミ同然な物も、ごちゃごちゃと混じり合ってあちこちに置かれている。まずは必要な物とそうでない物を分別するべきなのだろうが、元々整頓が得意でないシュナイダーには、この作業がとてつもなく面倒に思えた。
 「とにかく、部屋をスッキリさせるのが先決だ。出してある物をみんな仕舞っちゃおう」
しかしシュナイダーの部屋の物入れは、既に物が積まれていて、これ以上収納出来なかった。
 仕方がないので、シュナイダーは服や鞄、雑誌や教科書、目に付く物全てを別室に丸ごと移動させた。そうして埃だらけの床や机があらわになったところで、掃除機を使い、雑巾掛けをして、部屋を磨き上げる。
 これは掃除に慣れていないシュナイダーにとって、結構手間のかかる作業だった。それでも何とか掃除を終わらせ、かなり遅くなった昼食をもそもそと摂っていると、電話が鳴るのが聞こえた。
 シュナイダーはパンを皿に置き、電話のある部屋に向かった。受話器を手に取り、耳に当てる。
 「もしもし」
 『シュナイダー? 具合はどうだ?』
 「若林か!」
受話器を握る手に力がこもる。電話口から聞こえるのは、間違いなく若林の快活な声だ。
 『今日も休んでるから、心配してたんだぜ。てっきり今日は出てくると思ってたから』
 「俺もそのつもりだったんだ。一人で退屈してるよ」
 『えっ、一人なのか?』
シュナイダーは母が勤めに出ていることを説明した。シュナイダーの境遇を知った若林は、さかんにシュナイダーの病状を気遣い、シュナイダーは嬉しくなる。
 「まぁ、風邪は治ったようなもんなんだ。ただ一人でいるのが退屈でな」
 『じゃ、俺、行ってやろうか? カルツたちと一緒に・・・』
若林の言葉に、シュナイダーの胸が躍った。
 (やっぱり部屋を掃除して良かった! 是非、来てくれ! 若林!!)
但し、カルツたちに用はない。と言うより、むしろ邪魔だ。シュナイダーは不自然に思われないよう、やんわりと断りを入れる。
 「来てくれるのは嬉しいけど、あんまり大勢に押しかけられるとキツイな・・・一応、病み上がりなんで、若林だけ来てくれるか?」
 『判った。じゃ、今から行くよ。今日はグランド整備のせいで練習が早仕舞いだったから、俺も暇だったんだ』
若林はそう言い残して、電話を切った。
 シュナイダーも受話器を戻す。それから両の拳を握り締め、力強く腕を引いてガッツポーズをとった。
 「やったーーーっ! 若林がうちへ来るぞ!!」
昨日は部屋が散らかっている上、自分が寝惚けていたせいで失態を演じてしまったが、今日は違う。
 部屋は引越し前の新居のようにスッキリと片付き、ピカピカに掃除してある。
 そして今日の自分は寝惚けていない。失態を晒すことはない。いや、間違っても失態など演じるものか!
 若林と部屋で二人っきり。
 「今日こそ、チャンスを活かして若林と(以下割愛)!!」
風邪とは関係ない、邪まな熱がシュナイダーの身体を駆け巡っていた。

 ドアチャイムが鳴った。
 シュナイダーがいそいそと出迎えると、ドアの外には若林が立っていた。
 「よく来てくれたな!」
シュナイダーが心からの声でそう言うと、若林も親しみのこもった笑顔を返す。
 「確かに元気そうだ。これなら、明日は大丈夫だな」
若林はチームメートたちも心配していたと言いながら、部屋にあがった。シュナイダーの部屋に足を踏み入れ、あまりの変わりように目を丸くする。
 「おまえ、よくこんなにキレイに掃除できたな〜。昨日はあんなに散らかしてたのに」
若林のために掃除したと白状したいところだが、変に押し付けがましく思われても損だ。そう考えて、シュナイダーはサラッと答えた。
 「まぁな。する事がなくて暇だったんで、掃除したんだ」
 「普段からこれくらいキレイにしとけよ。お母さんが喜ぶぞ」
 「いつもは何かと忙しいんだよ」
 「ところで、この部屋、椅子とかねぇの?」
若林に聞かれて、シュナイダーは椅子も別室に片付けてしまった事を思い出した。そしてガランとした部屋に立ち尽くしている若林を見て、あることに気づく。
 「・・・若林、悪いな。この部屋には椅子がないから、座りたいならベッドに座っててくれ」
 「わかった」
若林は素直に、ベッドの縁に腰掛けた。その全く警戒心のない様子に、シュナイダーは密かに興奮する。
 この体勢なら、簡単に押し倒せるじゃないか!
 マリーは学校、母さんは仕事、どっちも当分帰ってこない筈・・・
 今日こそは、若林と親密になれるチャンスだ!
 「シュナイダーは、座んねーの?」
若林の方から聞いてきてくれた。シュナイダーはウキウキしているのを悟られないよう、静かに若林の隣に座る。
 若林に病状を聞かれたので、まずはその説明する。それから昨日今日のチームの様子など、当たり障りのない話を若林に聞く。そして若林の話が自然に途切れた時に、シュナイダーはおもむろに口を開いた。
 「・・・若林・・・」
 「ん?」
若林がシュナイダーを見る。シュナイダーが秘めたる想いを打ち明けようとした、その時。
 ドアチャイムが鳴った。
 「おい、誰か来たぞ」
 「構わん。放っておけ」
 「おまえ、具合が悪くて出られないならともかく、元気なんだから出ろよ。宅配便とかが届いてるのかもしれないだろ?」
 若林に真っ当に意見され、シュナイダーは仕方なく玄関へ出向いた。
 ドアを開けるとそこにいたのは、キッチリとスーツを着込み、好感度全開の営業スマイルを浮かべた若い男。片手に小型の書類ケースを提げ、空いたほうの手にカラフルに印刷されたパンフレットらしき物を持っている。
 飛び込みセールスマンの見本だな、とシュナイダーは思った。
 「やぁ、こんにちは! おうちの人はいるかな?」
 「いません」
爽やかな声で妙に親しげに話しかけてくる男を冷たくあしらうと、シュナイダーは男の鼻先でドアを閉め、施錠した。ドアの向こうからかすかに、パンフを郵便受けに入れておくから親に見せてくれ、というような声が聞こえた。
 シュナイダーは早足で部屋に戻ると、若林に文句を言った。
 「くだらんセールスだったぞ。お陰で貴重な時間を無駄にした」
 「貴重な時間って、おまえ、俺と話してただけだろ?」
若林が笑いながら混ぜっ返す。若林と二人っきりの会話を楽しみ、更にその先の段階へと進む為の貴重な時間が無駄になったのだ、と言いたいのをシュナイダーはぐっと堪える。
 「それで、さっきの続きだが、若林・・・」
 ドアチャイムが鳴った。
 若林が笑いながら、シュナイダーをせっつく。
 「ほら、今度こそ宅配かもしれないぞ。出ろよ!」
シュナイダーは嫌々腰を上げた。さっきのセールスマンだったら蹴り出してやる!と思いながらドアを開ける。
 ドアの前に立っていたのは、品のいい中年の婦人だった。近所の人だろうか、母の知り合いだろうか、とシュナイダーは少々畏まる。
 「初めまして。この家のお坊ちゃん?」
婦人はニコニコ笑いながら尋ねてきた。初めまして、という挨拶に、またもセールスかと思いきや、婦人は薄い冊子をバッグから取り出して話し始めた。
 「本当の神についてご存知かしら? 今までの聖書の解釈は、実は間違ってるんですのよ」
 「興味ありません!」
シュナイダーは勢いよくドアを閉めた。不愉快な気分で、乱暴にガチャッと鍵を掛ける。
 シュナイダーは早足で部屋に戻り、若林の顔を見るなり文句をぶつける。
 「今度は宗教の勧誘だ! もういい! もう誰が来ても、俺は出ないからな!」
 「なに怒ってるんだ? 短気な奴だな」
 「俺は若林に話があるんだ。俺は・・・」
 ドアチャイムが鳴った。
 あまりのタイミングの良さに、若林がゲラゲラ笑う。
 「ほら、客だぜ。留守番なんだから、ちゃんと出ろよ」
 「嫌だ。どうせ大した相手じゃない。放っとけば引き上げるさ」
しかし今度の客はしつこかった。シュナイダーが居留守を決め込んでいるのを見抜いているかのように、連続でチャイムを鳴らし続ける。あまりの煩さに、若林がこれ見よがしに両耳を塞ぎながら言った。
 「おい、出ろよ! これじゃ、煩くて敵わない」
シュナイダーは苛々しながら玄関に向かった。こんなにしつこく鳴らすとは、相手は子供の悪戯か、クール宅急便の配送業者に違いない。もし子供の悪戯だったら、ただじゃおかないぞ!
 シュナイダーがドアを開ける。案の定いたのは子供だったが、子供は子供でも、それは妹のマリーだった。
 「マリー?」
 「よかったー、お兄ちゃんが起きてくれて! 今日、鍵を持ってくの忘れちゃって、お兄ちゃんが起きてくれなかったらどうしようって思ったのー!」
 パタパタと家に駆け込む妹を見ながら、シュナイダーはため息をつく。
 妹が学校から戻るのは、もっと遅い時間だと思っていた。せっかく若林と二人っきりの時間を過ごせると思ったのに、もうタイムアップらしい。
 「お兄ちゃん! お兄ちゃんってば!」
妹の泣きそうな声に、シュナイダーは慌てて振り返った。
 「どうした、マリー!?」
 「ひどいよ、お兄ちゃん。マリーの部屋が、お兄ちゃんの物で一杯になってるじゃない!」
 「あー・・・済まん」
シュナイダーは自室を掃除するのに、邪魔な私物を全部マリーの部屋に押し込んでいたのだった。
 「悪かった。すぐに片付けるよ」
 「マリーも手伝おうか?」
頼むと言いかけたシュナイダーは、私物の中には愛しの若林に関する秘蔵グッズがあったことを思い出し、慌ててかぶりを振った。
 「いや、大丈夫。すぐ片付けるから、他の部屋で待っててくれ」
 「はーい」
それからシュナイダーは自室に戻り、若林に事情を説明した。話を聞いた若林が、呆れたように言う。
 「じゃあ、今日はこれから妹さんの部屋の片付けか?」
 「そうなるな」
 「しょうがねぇなぁ。それなら俺も手伝うよ」
 「!!! いや、いい! 俺のやったことだから、一人で片付ける!」
妹に見られるより、本人に見られる方が数倍ヤバイ物が多々あるため、シュナイダーは若林の申し出を断った。若林は肩をすくめて言った。
 「判った。じゃあ、俺は邪魔しないようにもう帰るよ」
 「え・・・帰っちゃうのか?」
 「だって、手伝いもしないで、ここにいるわけにも・・・あっ、そうか!」
若林は何を思ったか、シュナイダーの部屋を出て、マリーを呼んだ。すぐにマリーが顔を見せ、若林を見て顔を輝かせる。
 「ゲンゾー! 来てたんだ〜。こんにちは〜!」
 「こんちは。な、カールが部屋を掃除してくれる間、俺と外に遊びに行かないか?」
 「ホント! 行く行く!」
そして呆気に取られているシュナイダーを振り返り、笑顔で説明する。
 「片付け終わるのを、家の中で待たれていたら気になるだろう? だから俺たち、外で時間を潰してくるよ」
 「わ〜い! ゲンゾーとデート〜!」
 「でっ、デートって、おいっ!!
シュナイダーの慌てぶりを妹思いが高じてのものだと誤解し、若林は真面目な顔で応じる。
 「心配するな。そんなに遠くに行かないし、すぐに戻ってくるよ。じゃ、片付け頑張れよ」
こうして気を利かせたつもりの若林は、マリーを連れて家から出てしまった。一人家に取り残されて、シュナイダーは地団太を踏む。
 「なんで、俺じゃなくて、マリーとデートなんだぁーっ!!」
マリーの部屋から私物を運び出しながら、シュナイダーの遠吠えは続くのだった。
おわり