れ れんらくぐらいしろ

 いつもより広く感じる自宅のリビングで、若林はくつろいだ様子で雑誌を眺めていた。時刻は午後九時を廻った所だ。
 そろそろ風呂に入って寝ようかと思ったとき、玄関の呼び鈴が鳴った。こんな時間に人が訪ねてくるのを不審に思いながら、若林はドアスコープを覗く。
 そこには旅行に行く時のような大荷物を抱えたシュナイダーが立っていた。若林は慌ててドアを開ける。
 「シュナイダー? 一体どうしたんだ?」
 「どうしたじゃない。若林が一人きりだと思うと心配で、泊まりに来てやったんだ」
 日本からドイツに留学してきた若林には、保護者役として日本サッカー協会のコーチが付き添っている。若林はそのコーチと同居して、日常生活を共にしていた。
 見上という名のそのコーチは他チームの視察をする為、今日から五日間の研修旅行に出掛けている。しかしその事をシュナイダーに説明した覚えはないので、若林は首を傾げた。
 「なんでそんな事知ってるんだ?」
 「今日の練習にミカミがいなかっただろ? だから監督に聞いてみたんだ」
見上は普段若林と共に、ハンブルクJr.ユースの練習に参加している。しかし見上はハンブルクの正規のコーチではないし、研修日程に基づいて行動しているので必ずピッチにいるとは限らない。選手達からすれば臨時か非常勤のコーチみたいなもので、見上がいなくてもそれを不審に思う者はいない筈だった。今日だって見上が研修旅行に行く、などという説明は選手達には一切されていない。
 それなのに見上の不在に気付き、それをわざわざ監督に確かめたというシュナイダーに、若林は内心驚いていた。
 「さすが、シュナイダーは注意深いな」
若林は素直に感心し、シュナイダーを家に招き入れた。
 「うん、まぁな」
シュナイダーは得意気に頷きながら部屋に入る。そして勧められるままに若林の向かいのソファに掛けた。
 若林には言えないが、実はシュナイダーは練習の時いつも見上をチェックしていた。理由は勿論「見上が若林の保護者だから」である。
 若林に接近、告白しようにも、保護者が近くにいたのでは何かと都合が悪い。逆に保護者がいない時なら、それなりのアプローチを若林に試みる事が出来る。そこでシュナイダーは愛しい若林だけでなく、その保護者の見上にまで毎日眼を配っていたのだった。
 見上が諸々の用事で練習に出ない事は今までにもあったが、若林を残して旅行に出るのは今回が初めてである。このチャンスを逃がしてはならじと、シュナイダーはいそいそと荷物をまとめ若林の家にやって来たのだった。
 「しかし、おまえ本当にうちに泊まるのか?」
ソファの横に置かれたシュナイダーの大荷物を見ながら、若林が訊いた。
 「来てくれたのは嬉しいけど、先に連絡くらいしろよ。それに理由が『心配だから』って何だ? 俺はガキじゃねーぞ」
シュナイダーの台詞は、若林の気に障ったようだ。大人に心配されるのならともかく、同い年の相手に心配してもらいたくない、という事だろう。
 「言っとくけど、俺は一人でも全く平気だぜ」
 「気にするな。言葉のあやだ。うるさい大人がいないんだから、羽根を伸ばしてもいいだろう?」
機嫌を損ねたと気付き、シュナイダーは言い方を変えた。この言葉には、若林も同感だった。別に見上をうるさいとは思っていないが、気楽な一人暮らし状態を楽しもうと思っていたのは事実だ。
 「なぁ、泊まってもいいだろ?」
 「仕方ねぇな。見上さんに無断だけど、まぁ、一晩くらいいいか」
 「一晩? 着替えなら、ちゃんと五日分持って来てあるぜ」
 「はあー!?」
シュナイダーの言葉に若林は呆れる。
 「おまえ、見上さんがいない間、ずっとうちに居座る気か?」
 「別にいいだろう。世話になるからには家事も手伝うし、お前の早朝自主トレにも付き合うぜ」
 「マジ?」
家事を手伝うという殊勝な発言に、シュナイダーの本気が窺えた。
 それに一人で続けている早朝練習だが、相棒がいれば張り合いが出る。いつもと違うメニューも出来るし、悪くないかもしれない。若林の気持ちがぐっと傾く。
 「そんなら、まぁいいか」
 「やった! 今日からよろしく頼むぜ」
シュナイダーが心底嬉しそうに笑う。若林はソファから立ち上がると、シュナイダーに言った。
 「それじゃ、もう寝ようぜ。ベッドに案内するよ」
 「!! も、もう、寝るのか!?」
ベッドという単語に、シュナイダーの煩悩が過剰反応する。どもるほど何に驚いたのかと訝し気に見ながら、若林が答える。
 「朝練に付き合う約束をもう忘れたのか? 早く寝ないと起きられないぞ」
 「あ、うん。そうだったな」
 「しっかりしてくれよ〜」
若林が苦笑いをしながら、シュナイダーを寝室に案内した。
 自分の荷物を手にしたシュナイダーは、通された部屋を見て眉をしかめた。置かれている私物や部屋全体の雰囲気が、どう見ても若林にそぐわない。
 「ここはミカミの部屋か?」
 「ああ。見上さんに内緒で泊めてやるんだから、散らかしたり、汚したりすんなよ」
 「ミカミのベッドかよ・・・」
若林と同じ部屋、同じベッドを使わせて貰う気でいたので、シュナイダーの顔に不満が浮かぶ。げんなりした様子のシュナイダーを見て、若林が声を掛ける。
 「嫌なのか? じゃ、さっきのソファで寝るか?」
 「そうじゃなくって・・・」
 「じゃ、俺のベッドに来るか?」
何といって若林の部屋にもぐりこもうかと考えていたシュナイダーは、若林の物分りのいい発言に何度も頷いた。
 「そう! その通りだ。お前のベッドがいい!」
 「わかった。じゃあ、俺が見上さんのベッドを使うよ」
 「そうじゃなーーーい!!
いきなり怒鳴りだしたシュナイダーに、若林がムッとした様子で言い返す。
 「大声出すなよ。何怒ってんだ?」
 「あ・・・いや、えーと・・・えーと・・・」
窮すれば通ず。シュナイダーの頭にパッと言い訳が閃いた。
 「だからさ、せっかく友だちの家に泊まりに来たんだから、眠る間際まで寝そべりながら駄弁ってたっていいだろ? 別の部屋で寝てたら、一人でいるのと変わらないじゃないか」 
 「ああ、そういう事か。それもそうだな」
若林が納得したように言った。
 「じゃあ、俺の部屋に居間のソファを持ってこよう」
 「そんなことしなくても、若林のベッドで一緒に寝ればいいだろう」
 「そんなに広いベッドじゃないんだ。ホラ、手伝えよ」
若林に促され、シュナイダーは渋々ながらソファを運ぶ破目になった。二人がかりでソファを持ち上げ、若林の寝室へと運び込む。
 (まぁいいか。同じ部屋で寝られるんだから、簡単に夜這いは出来るし・・・)
シュナイダーは事態を前向きに考えることにした。そして少しでも忍びやすいように、ソファをベッドにぴったりくっつける。
 「近過ぎないか? それじゃ、ソファにあがりにくいぞ」
 「近くなきゃ話がしにくいだろう」
 「そうだけど・・・まぁ、シュナイダーが気にならないんならいいけどよ」
ソファを運んだせいで身体が汗ばんでいるのに気付き、若林は風呂に入ろうとしていたのを思い出した。若林は着替えを取り出しながら、シュナイダーに声を掛ける。
 「俺、風呂に入るから先に寝てろよ」
 「風呂っ!?
シュナイダーが上ずった声で叫んだ。オーバーな反応に若林が面食らう。
 「何を驚いてるんだ? 変な奴だな」
それ以上はシュナイダーに構わず、着替えを手に浴室へと向かった。
 部屋に残されたシュナイダーは、これからどうすべきかを焦りながら考えた。頭の中では、暴走しそうな本能と辛うじて残った理性が互いに主張し合いせめぎあっている。
 (いきなり『俺も一緒に入る!』じゃ引かれるな。でも待てよ。日本人はセントーとか言って、赤の他人と風呂に入るのを気にしないんじゃなかったっけ? だったら俺が入っても・・・待て待て、果たして俺は若林の裸を見ても理性を保てるだろうか? 告白もしてないのにいきなり×××なんかしたら、若林に嫌われるだろうな。・・・いや、一緒に入浴することでそういうムードになるかもしれないじゃないか。そしたら夜這いなんかしなくても堂々と・・・えーい、落ち着け! そう上手く事が運ぶと思うのか!? 下手したら若林に怒鳴られて、変態認定されるのがオチだ。そんなリスクを冒す必要があるのか?・・・・・・でも若林が今、風呂に入ってるんだよなぁ・・・放っとく手はないよなぁ・・・せめてこっそり覗くくらいは・・・いかん! 覗きなんぞしてバレたら、それこそ取り返しがつかないぞ!!)
 トゥルルルルル!!
突然、けたたましい電子音が耳に飛び込んできた。
 「なんだ?」
シュナイダーはドアを開け、廊下に出てみた。どうやら居間にあった電話が鳴ってるようだ。
 真剣に考えを巡らしていたシュナイダーは、呼び出し音で思考を中断され顔をしかめる。しかし他人の家の電話に出るわけにもいかず、そのままにしておいた。
 放っておけば留守電に切り替わるだろうと思い、シュナイダーは若林の部屋に戻ろうとした。その時、浴室の方から慌しい物音がしたと思うと、そこからバスタオルを腰に巻いただけの姿で若林が飛び出してきた。
 若林の慌てぶりからすると、この家の電話は留守電に接続されてないらしい。若林は廊下にいるシュナイダーには目もくれず、電話の鳴る居間へと姿を消す。
 「うおっ!?」
若林の湯上りセミヌードに釣られて、シュナイダーはついふらふらと居間に入っていった。中ではドアに背を向けて、若林が電話の相手と話している。
 「・・・はい、・・・そうです。でも・・・そうなんですか!? はい・・・」
 シュナイダーの気配に気付いたのか、受話器を耳に当てたまま若林が振り返った。そしてシュナイダーを見つけると、怒ったように受話器を突き出した。
 「シュナイダー、お母さんからだぞ!」
 「えっ!?」
シュナイダーは狼狽して受話器を受け取った。電話口の向こうからは、母のヒステリックな声が聞こえてくる。
 『カール! あんたなの? 全く何考えてんの! 外泊するなんて、母さん聞いてないわよ! 今日はサッカーの練習から帰ったあと、ずっと上の空でご飯もあまり食べないし、もう寝るとか言ってさっさと自分の部屋に入っちゃうから、どこか悪いのかと思って心配して部屋を覗いてみたら、もぬけの空じゃない! 母さんビックリしたわよ! よく見たら荷物をまとめて出てったみたいだから、てっきり家出かと・・・カルツさんの家に電話しても来てないって言うし、ここにいなかったら警察に届けようかと思ったのよ! 早く帰ってらっしゃい!! あんたったらもう、本当にどういうつもりなのよっ!!』
 「・・・ごめん」
なおも言い立てる母をなだめすかして、シュナイダーは受話器を置いた。
 恐る恐る若林を見ると、腕組みをしてこちらを睨んでいる。シュナイダーの気持ちが更に萎れる。
 (まずい・・・完璧怒ってる・・・)
 「おまえ、家族に無断で来たのかよ?」
 「ああ。その・・・今日は若林の家に泊まれると思って、嬉しくて他の事に気が回らなかった」
 「おまえなぁ〜」
あまりにも子供っぽい言い訳に、若林が肩をすくめる。シュナイダーはいたたまれない気持ちになった。
 「とにかく今日は帰れよ。お袋さん、心配してるぞ」
 「わかった。騒がせて悪かった、若林・・・」
シュナイダーは肩を落として、若林の寝室に戻った。そこには持って来たときのまま、全く解いていない自分の荷物がある。バッグを手に廊下に出ると、タオル姿のままの若林が困ったような顔つきでこちらを見つめていた。
 「今度見上さんが旅行する時は、あらかじめおまえに連絡するから。今度はちゃんとお袋さんの許可貰って泊まりに来い」
 「わかった。それじゃ・・・・・・・えっ!?」
片手に抱えた荷物を取り落とし、シュナイダーは若林に向き直った。
 「今、なんて言った? また来ても構わないのか!?」
てっきり「二度と来るな!」くらいの事は言われると思っていたので、シュナイダーは耳を疑った。
 「構わねぇよ。俺も見上さんに許可貰うようにするから。何も悪いことをするために集まるわけじゃないんだから、周りに心配かけないようにすれば問題ないだろ」
 本当はちょっとワルいコトもしたかったのだが、そんなことはおくびにも出さずシュナイダーは大きく頷いた。母に叱られ暗い顔をしていたシュナイダーが元気を取り戻した様子に、若林は安堵の笑みを浮かべる。
 「その時は朝錬に付き合う約束だからな。忘れるなよ」
 「忘れるものか。それじゃあな!」
半裸の若林にドアの前まで見送られながら、シュナイダーは浮かれ気分で若林の家を後にした。
 帰宅したシュナイダーは、母から長時間に及んでくどくどと叱られた。しかしシュナイダーの頭の中は未来の甘いお泊り天国絵図に染まっており、きついお叱りもまったく堪えていないのだった。
おわり