ね ねてもさめても

 試合開始を数分後に控えて、場内には緊迫した空気が漂っていた。
 両チームのベンチ前には選手達が集まり、各々監督の指示に耳を傾けている。ハンブルクJr.ユースの監督は、自分を取り囲む選手たちの顔を見回しながら言った。
 「いいか、相手を甘く見るな! 向こうはがむしゃらに攻めてくるぞ! 相手を下位チームと思わず、公式戦のつもりで全力でぶつかって行け!」
 選手たちは皆真剣な面持ちで、監督の話に聞き入っている。しかしシュナイダーだけは、どこか表情がうつろだった。顔は監督の方に向けているが、試合に向けて高まっている筈のモチベーションが感じられない。
 「シュナイダー、どうした? どこか悪いのか?」
監督に聞かれて、シュナイダーは無言で首を振る。体調は万全でどこにも悪いところはない。それなのに不調に見えるのは、士気が落ち込んでいるせいだろう。その原因はシュナイダーには判りきっていた。
 今日は若林がいない。
 若林の保護者代わりを務める見上コーチが、昨日から他チームの視察の為にハンブルクを離れている。そして本人の希望で、若林は見上に同道していた。視察先のチームで練習に参加させてもらえるので、ハンブルクで培った自分の実力を試してみたい、というのが若林の言い分である。
 シュナイダーは今日の試合を理由に若林を引き止めたのだが、若林の決意は固かった。
 『下位チーム相手の練習試合だし、俺がいなくても大丈夫だろう? シュナイダーがいるんだから、絶対勝てるって』
 そして若林は見上と出掛けてしまった。ハンブルクに戻ってくるのは一週間後だ。
 若林に信頼されているのは嬉しいが、一週間も若林に会えないのが辛い。しかも「若林にイイ所を見せたい」という下心が、シュナイダーが試合で活躍する原動力だったりするので、今日の試合はどうにもヤル気が湧かない。
 シュナイダーは意気消沈したまま、ピッチに向かった。
 試合開始を告げるホイッスルが鳴り響く。
 キックオフで蹴り出したボールをパスで繋ぎながら、敵がハンブルク陣営に攻め込んできた。相手チームの選手達は目をギラギラさせて、闘志を全身にみなぎらせている。ハンブルク相手に一度も勝てたためしの無いチームだが、今日はハンブルクの守護神・若林がいないので初勝利を狙えると思っているのだろう。
 だが若林が来る前も、ハンブルクJr.ユースは常勝チームだったのだ。監督はだいぶ発破を掛けていたが、現実にハンブルクがこの試合を落とす事は起こりえない。
 シュナイダーはそう思って気楽に構えていたのだが・・・
 先にゴールを割られてしまったのは、ハンブルクだった。
 ゴール内に転がるボール。口惜しがる自チームのキーパー。まるでリーグ優勝したかのように、飛び上がって大喜びする敵チームの選手たち。
 若林がゴールを守るようになってから久しく見ることの無かった光景を目にして、シュナイダーは呆然とする。
 攻めの中心であるシュナイダーは、若林がいなくて上の空だったが、その事を別にしても今日のハンブルクは全体的に動きが鈍かった。無意識に相手を見くびり、隙が生まれていたようだ。対ハンブルク戦初勝利を目指して燃えている相手チームに、ハンブルクは気迫で負けていた。シュナイダーの胸に不安がよぎる。
 まずい。
 このままでは本当に負けてしまう。
 そんな事になったら、若林に会わせる顔がない!
 ようやくエンジンが掛かったシュナイダーは、積極的にボールを取りに行く。本気を出したシュナイダーに敵う者はなく、立て続けにに同点、逆転のゴールが決まった。
 シュナイダーのプレーを見て、ハンブルクの選手たちも本来のペースを取り戻したようだ。その後は失点することなく、逆に追加点を重ねていつものように大差で敵を下したのだった。

 「シュナイダー!」
試合終了のホイッスルが鳴った直後、ここで聞く筈がない声で名前を呼ばれ、シュナイダーは慌ててベンチに目を向けた。
 「若林・・・どうして、ここに?」
驚きを隠せずにシュナイダーが問うと、若林が照れ臭そうに笑った。
 「やっぱり試合が気になって、見上さんに頭下げて一人で帰って来たんだ。スタメンに入ってないから、さっきまで観客席で見てたんだけど、我慢できなくなってこっちに来ちまった」
 「試合、ずっと見ていてくれたのか」
 「ああ、見てたぜ。先制されたときは焦ったけど」
若林はシュナイダーの肩に手を置いて、ニッと笑いかけた。
 「やっぱり、シュナイダーだ! 本当に頼りになるぜ!」
若林の見ている前で、若林の期待に応える事が出来たのだと思うと、シュナイダーの胸にじわじわと喜びが広がった。シュナイダーは肩に置かれた手に自分の手を重ね、その手を強く握り返しながら言った。
 「俺が頑張れたのは若林のお陰だ」
 「俺の? 俺は何もしてないぜ」
 「いや。若林に今日の試合を任されたから、俺は・・・」
シュナイダーは言葉を切った。
 「今日の試合だけじゃない。俺はいつも、お前の為に試合をしてるんだ。俺は、若林が・・・」
 「・・・シュナイダー・・・」
明るく笑っていた若林の顔が、シュナイダーにつられるように真面目なものに変わる。
 「若林、好きだ・・・」
シュナイダーの両手が、若林の身体を抱き寄せた。
 一瞬の躊躇いの後、若林もシュナイダーの背に腕を回した。勝利の歓声が響き渡る場内で、二人は互いの身体をきつく抱しめ合う。
 シュナイダーの心臓は今にも破裂しそうだった。試合直後の興奮と勢いで若林に告白してしまった。そして溢れ出る想いを押さえきれず若林を抱しめたが、若林の方からも抱擁に応えてくれるとは思わなかった。
 若林と抱き合っている。
 シュナイダーの頭の中はその事で一杯で、ハンブルクの勝利に沸く場内の大歓声すら全く耳に入っていなかった。衆人環視の騒がしい場所なのに、シュナイダーには静寂の中若林と二人っきりでいるように感じられていた。
   若林がシュナイダーの耳元で囁く。
 「・・・わかってた。俺も、シュナイダーが好きだから・・・」
 「!! 若林、本当に・・・」
シュナイダーは慌てて聞き返そうとしたが、それ以上の言葉は出せなかった。
 若林が自らの唇をシュナイダーの唇に重ねていた。
 若林はシュナイダーの問いかけに、言葉ではなく態度で応えてくれたのだった。

 「おい、シュナイダー。いつまでそこに立ってる気だ? 早く引き上げようぜ」
カルツに肩を叩かれて、白昼夢に浸っていたシュナイダーは現実に引き戻された。
 選手達はぞろぞろとピッチから引き上げており、ベンチにはもう監督もコーチもいない。もちろん、ハンブルクを離れている若林がいる筈もない。
 深くため息をつくと、シュナイダーはカルツと連れだって歩き始めた。
 カルツがシュナイダーに話しかける。
 「何だかぼーっとしてたな。どうかしたのか?」
 「別に。ちょっと考え事をしていたんだ。もし若林がここにいたら、さっきの俺の活躍を見てきっと(以下省略)」
シュナイダーから都合のいい妄想をとうとうと聞かされて、カルツはうんざりした声で言った。
 「あのなぁ。惚れちまったもんは仕方ないけど、夢を見るのは寝てる時だけにしとけって。起きてる時は現実を見ろや。な?」
 「夢と決めつけるな。これから現実になるかもしれないだろう!」
 「・・・それを夢って言うんだよ」
 一週間後ハンブルクに戻ってきた若林は、シュナイダーから件の練習試合について事細かに報告された。
 しかしシュナイダーの活躍を聞かされたからといって、若林がシュナイダーに惚れ直し愛の告白をするなどという事は全くなくて、
 「先制されたぁ? おまえ、相手をナメて掛かっただろ!?」
と、シュナイダーに苦言を呈したのみだったという。
おわり