う うそだとわかっても

 ハンブルクJr.ユースチームの練習場へと向かっていた若林は、交差点の信号待ちで足を止めた。何気なく信号を見上げているうちに、またあの事が頭に浮かんできた。
 「・・・やべぇよなぁ」  
一週間前の出来事が頭をよぎり、若林の口から呟きが漏れる。近頃は何かというと、いつも同じ心配事が若林の頭を塞ぐ。しかし何度考えても妥当な解決案が浮かぶ事はなく、若林はため息をつくのが常だった。
 若林は一週間前、親友のシュナイダーから思いも寄らぬ悩みを打ち明けられた。その時どこをどう間違ったのか、シュナイダーを励ます過程で、シュナイダーにキスしてしまった。
 その後、シュナイダーの態度は目に見えて明るくなった。破れかぶれの心境でやったキスが功を奏したようで、その点は若林としても嬉しかった。
 しかしキスの一件以来、シュナイダーの若林に対する態度が変わった。どこがどう、とハッキリ指摘はしにくいのだが、シュナイダーが自分を見る目つきが以前とは違う気がする。目つきだけじゃない。会話に妙な含みを持たせたり、前よりも馴れ馴れしく身体に触ってきたり・・・
 元々親しくしている相手だから友情の延長と取れなくもないが、若林は何となく居心地が悪かった。
 「まさかとは思うけど・・・」
若林の頭にまたあの嫌な仮説が浮かぶ。
 一週間前シュナイダーに打ち明けられた悩みというのは、『恋人がいないこと』だった。シュナイダーはあのキスがきっかけで、俺を恋人にしようと思ってしまったんじゃないだろうか? 普通なら有り得ない事だが、あの時のシュナイダーは精神的にかなり追い詰められている様子だった。男同士のキスがきっかけで、変な方向に考えが向いてしまう事もあるのではなかろうか?
 「もしそうなら、俺のせいだよな・・・。でも、どうすりゃいいんだ?」
勘違いするなとシュナイダーを撥ね付けるのは簡単だが、それをやったら前よりもシュナイダーが落ち込むかもしれない。だからといって、シュナイダーの恋人になるなんて出来ないし・・・
 ここまで考えて、若林はブンブンと頭を大きく横に振った。
 「止め止め! 全部俺の勘違いで、シュナイダーには全然そんな気は無いかもしれないってのに!」
 自分の願望を声に出す事で無理に気分を落ち着かせ、若林は信号が変わるのと同時に、悩みを振り払うかのようにその場から駆け出した。

 若林はロッカールームのドアを開けた。若林はいつも皆より早めに来るようにしているので、ロッカールームには誰もいない筈だった。ところが今日は、若林よりも早く来ている者がいた。
 「よう、若林」
 「シュナイダー? 今日はえらく早いな」
練習開始時間を守ったためしがないシュナイダーが自分より早く来ているとは思わず、若林は意表を突かれた。シュナイダーの顔を見た途端、例の気掛かりが蘇る。
 「なんでこんなに早く来たんだ?」
 「若林だって早いじゃないか。いつも一人でウォーミングアップしてるんだろう? 俺もこれからは早く来て、お前に付き合うよ」
 そう言われて、若林はドキッとした。急にシュナイダーからの束縛がきつくなったような気がして、若林は慌てて言い返す。
 「無理するな。シュナイダーには特訓に付き合って貰ってるし、もう充分だ」
 「若林に恩を着せる気はない。俺が勝手に早く来るだけだから、気にするな」
シュナイダーはそう言うと、笑顔で若林の肩を親しげに抱いた。このフレンドリーな仕草が、若林を更に不安にさせる。
 以前のシュナイダーは表情の起伏に乏しく、どちらかと言うとクールな印象だった。こうやって笑顔を見せながら気安くスキンシップを図るなんて事はしなかった。やっぱりシュナイダーは前と違う。
 若林はそう思ったが、当のシュナイダーにしてみたら、実は前からこうやって若林にベタベタしたかったのである。今までは若林に嫌われるのを恐れるあまり、意識して若林と距離を保っていたのだ。だが一週間前に若林が自分からキスしてくれた事で、シュナイダーの自己規制はかなり緩くなっていた。
 「あ、あの、シュナイダー!」
肩に掛けられた手を出来るだけそっと外しながら、若林は聞いてみた。
 「そういえば、お前、彼女出来たのか?」
 「彼女? いいや」
 「だったら、俺なんかとつるんでないで、女の子に声を掛けろって! 恋人が欲しいんだろう?」
何気なく口にしたこの一言で、若林はある事に気づく。
 「あ、待てよ? もしかして今までシュナイダーに恋人が出来なかったのって、俺のせいじゃねぇか? 俺がいつもシュナイダーを練習に付き合わせてるから、女の子と知り合うヒマがなかったんだ!」
 「若林、それはちが・・・」
 「絶対そうだ! でなきゃ、シュナイダーに彼女が出来ないわけないもんな」
若林は明るく笑ったが、シュナイダーの顔からは既に笑みが消えていた。だが若林はシュナイダーの困惑には気づかない。
 「毎日付き合わせて、本当に悪かった。もう俺の練習に付き合わなくていいから、おまえは空いた時間に女の子に声掛けて、バッチリ彼女作ってこい!」
シュナイダーはこの残酷な提案に対して何も言えなかった。
 この時シュナイダーの脳裏には、先週聞いた若林の声が鮮やかに再生されていた。

 『俺はシュナイダーに告白されたら嬉しいし、キスだって出来る!』

 自分を励ます為に、無理をして言った台詞だと判っていた。判ってはいたが、この健気な台詞と今の発言とのあまりの落差に、シュナイダーの気分は急速に沈んでいった。
 「・・・若林、俺といるのがそんなに嫌か?」
暗い声で言われて、若林はドキリとする。
 正直に言ってしまえば、最近のシュナイダーの妙に馴れ馴れしい態度は苦手だった。本人には言えないが、できる事なら少し距離を置きたいと思っていた。そうした本音が知らぬ間に態度に出てしまったのだと気づき、若林は焦る。
 若林が返答に迷っているのを見て、シュナイダーは嘆息する。
 「やっぱり、若林が俺に告白されて嬉しいわけがないよな」
 「そんな事言ってないだろう!」
 「でも、あの時の言葉は嘘だったんだろう。俺にキスしたのも、本気じゃなかったんだ」
畳み掛けるように追及されて、若林は観念した。これ以上言い繕うのは無理だ。シュナイダーをまた落ち込ませる事になるかもしれないが、正直に言おう・・・。
 「・・・悪りぃ。悪気はなかったんだ」
若林は素直に詫びた。
 「あん時は、あんまりシュナイダーが落ち込んでたから、俺が嘘をついたりキスしたりする事でシュナイダーが元気になるなら、それでもいいかって思ってた。本当にごめん」
 若林は、気まずい思いでありのままを打ち明ける。それからシュナイダーの前で、深々と頭を下げた。
 二人きりのロッカールームに、重苦しい沈黙が流れる。
 先に行動を起こしたのはシュナイダーだった。頭を下げたままの若林に近づくと、肩に手を掛けて顔を上げさせた。そして硬い表情の若林のあごにそっと指を添え、心もち仰向かせると・・・

 若林の唇に自分の唇を重ね合わせた。
 
 人間予期せぬ出来事に遭遇すると、暫し放心するものである。この時の若林がまさにそれで、たっぷり数十秒の間はシュナイダーの為すがままに唇を許していた。
 我に返ったのはその直後。
 「なななななななにやってんだ、てめぇ!!」
慌ててシュナイダーの身体を突き飛ばし、怒りもあらわにシュナイダーを睨み付ける。しかしシュナイダーは落ち着き払ったものだった。
 「何を怒ってるんだ。キスなら前にもしたじゃないか。しかも前回は若林からしてくれたんだぞ」
 「!! そ、そうだけど、アレは本気じゃなくて・・・」
 「それは判ってる。でも俺は、若林のキスが忘れられない」
シュナイダーの言葉を聞き、若林の顔が紅潮する。
 やはり自分とのキスがきっかけで、シュナイダーは同性愛に目覚めてしまっていたのだ。そう思うとシュナイダーを責められず、若林は口ごもった。一方、シュナイダーはすっかり腹を括っていた。若林の本音は聞いた。でも、これだけはどうしても若林に告げておきたい。
 「俺が恋人にしたいのは・・・・・・若林、おまえだけだ」
 
 いかに自責の念があるとはいっても、この告白をその場で受け入れるなどという離れ業は若林には出来なかった。かといって、自分のせいで同性愛嗜好になってしまったシュナイダーを、このまま突き放す事もできない。
 返事を保留した若林は一週間悩み抜いた挙句、シュナイダーとの交際を了承したのだった。それは、ある使命感に基づいての行動だった。
 (俺が道を誤らせたんだから、俺が責任を持って正しい道に戻してやる!)
 こうして、大逆転で一年越しの片想いを実らせて有頂天のシュナイダーと、悲壮な決意を固めた若林の交際は始まったのだった。
おわり