こ こどもみたいに
洗面所で就寝前の歯磨きをしている時、電話が鳴り出した。電話に出るために歯磨きを中断しようかと一瞬思ったが、見上コーチがいる事を思い出し、若林はそのまま歯磨きを続けた。案の定、電話のベルはすぐに止んだ。見上が出てくれたのだろう。若林が歯磨きを続けていると、見上が子機を手にして洗面所に現れた。 「源三、すぐ出られるか? シュナイダーからなんだが・・・」 「ふゅないぁー?」 歯ブラシを口に突っ込んだまま聞き返す若林に、見上がどうする?と小声で問い掛ける。若林は大急ぎで口をすすぐと、見上から子機を受け取った。見上は若林に電話を渡すと、すぐに洗面所から出て行った。若林は口の周りを拭いながら、子機を耳に当てる。 「もしもし?」 『若林? 俺』 普段よりもぶっきらぼうな声だ。若林も負けじとつっけんどんな応対をする。 「んな事、判ってるよ。こんな時間に、何の用だ?」 『大した用事じゃない。今日の事を、一応詫びておこうと思ったまでだ』 「一応?」 子機を耳に当てた若林は洗面所から出て、見上のいる部屋の前にやってきた。この子機は見上の部屋に置かれている物なので、すぐに通話を終わらせて見上に返そうと思ったのだ。 「それって、本気で悪いとは思ってないって事だな。いらねぇよ、そんな謝罪!」 ドアの前に立った若林は、突き放すような調子で怒鳴った。 『それって、本気で悪いとは思ってないって事だな。いらねぇよ、そんな謝罪!』 ドア越しに若林の声が聞こえて、机に向かっていた見上は顔を上げた。言葉と声の調子から察して、どうやら若林とシュナイダーは揉めているようだ。 (二人は仲がいい筈だが・・・何かあったみたいだな) 若林の保護者であり、ハンブルクJr.ユースチームのコーチでもある見上には、見過ごせない事態である。見上はドアの方へと視線を向けた。若林は部屋の前に立って話しているらしく、シュナイダーの声は聞こえないものの、若林の声はドア越しでもハッキリ聞き取れた。 『言い訳してんじゃねーよ!』 『俺をバカにしてんのか?』 『もういい! 切るぞ!』 この言葉の後、若林は本当に電話を切ったようだ。直後にドアがノックされ、見上がドアを開けると、若林が頭を下げて子機を返してきた。そのまますぐに立ち去ろうとするのを、見上は引きとめて室内に招き入れた。 「源三、どうしたんだ? シュナイダーと喧嘩してるのか? ここまで声が聞こえたぞ」 叱られているのではなく、心配されているのだと気付き、若林は己の軽率な振る舞いを反省する。 「喧嘩っていうか・・・大した事じゃないんです。心配掛けてすみません」 「一体何があったんだ?」 「別に、話す程のことでは・・・」 言葉を濁す若林を見て、見上は逆に深刻な事態なのではないかと推測した。子供の喧嘩に大人が口を出すのも何だが、若林がドイツで得た初めての親友を失ったり、チームの結束にヒビが入るような事にはしたくない。 「言いたくないのなら無理には聞かないが、後から後悔するような振る舞いはするんじゃないぞ」 若林の意思を尊重して、見上は重々しい口調でそれだけアドバイスした。すると若林が慌てた様子で説明を始める。 「本当に何でもないんです! そんな大変な事じゃなくって・・・シュナイダーの奴が、やたらと俺を下に見ようとするんで、それが腹が立って」 「シュナイダーが?」 見上には初耳だった。確かにチーム編入当初の若林は、サッカー後進国からの留学生という事で多くのチームメートから見くびられていた。しかしそうした空気の中、シュナイダーだけは若林を対等に見てくれていたのだ。そして若林が実力をつけ始めた今となっては、彼を見下す者は一部の粘着質な数人を除いて殆どいなくなっている。それなのに今になってシュナイダーが、若林を見くびりだしたというのだろうか? だが、これは見上の早とちりだった。見上の顔つきから、話を誤解されてると察した若林が、すぐに訂正をした。 「あ、これはサッカーの実力とか、そういう話じゃないんです」 「じゃ、何の話だ?」 「今日、あいつと雑談してて家族の話になったんで、俺には上には兄弟はいるけど下にはいない、って言ったんです。そしたらあいつ、俺のことを『道理で若林には可愛い所が多い。末っ子だからだな』とか『久し振りに兄貴に甘えたいんじゃないか』とか『俺を兄貴と呼んでもいいぞ』とか、変な事言い出しやがって・・・」 話を続けるうちに不快感が蘇ってきたらしく、若林の顔つきが険しくなる。 「確かに俺は末っ子だけど、日本じゃ下級生だけじゃなく同い年の奴らにも頼られてたんだ。委員長だの、キャプテンだのを任されて、ちゃんとやり遂げてきた。なのにあいつは・・・多分、俺の方が背が低いからって外見で子供扱いしてるんですよ!」 なおもシュナイダーに対して不満をぶつける若林を見て、見上は思わず苦笑する。根の深い深刻なトラブルかと思っていたのだが、喧嘩の原因が本当に大したことじゃなかったので安心したのだった。見上は若林を落ち着かせるように、大きく頷きながら相槌を打った。 「確かに失礼な話だな。同い年の相手に向かって、『兄貴と呼んでもいい』はないな」 「見上さんも、そう思うでしょう!」 同意を得られたのが嬉しいらしく、若林が勢い込んで言った。見上は若林の肩に手を置くと、諭すように言った。 「ああ。でも、こういう考え方も出来ないか。シュナイダーには下に妹がいて、ずっと兄としての生活を送ってきた。で、源三が自分とは逆にずっと弟としての生活をしてきたのだと知った。それなら自分が、仲のいい源三の兄代わりになって源三の力になってやれるのではないかと考えた・・・」 見上の言葉に、若林は口を尖らせる。 「そんな気遣いをしてくれてる感じじゃ、なかったんですけど?」 「照れ臭かったんだろう。よく思い出してみろ。シュナイダーは源三がドイツに来た当時から、源三の事を考えて色々と行動してくれていたじゃないか。俺は、今回もきっとそうなんだと思うぞ。少々お節介ではあるがな」 「・・・そうなのかなぁ?」 納得してはいないようだが、見上に事情を説明した事でストレス発散にはなったらしく、激高していた若林の態度は落ち着いたようだ。自分からこんな事を言い出した。 「俺、明日シュナイダーに会ったら、今日怒鳴った事を謝ります。シュナイダーにバカにされてるんだと思ってカッとなっちゃったけど、見上さんの話を聞いたらそうじゃないかも・・・って気がしてきたし」 「ああ、それがいい。恐らくシュナイダーは、源三に頼りにされたいんだろう。兄貴分の気質があると、そういう考え方をするもんだ」 末っ子でありながら兄貴分気質充分の若林は、見上の言葉に自得したようだった。夜中にお騒がせしましたと頭を下げ、見上の部屋から出て行った。若林を見送りながら、見上はふぅーっと安堵の溜息を洩らす。 若林も、シュナイダーも、見上の目には同年代の少年達よりも大人びて見える。二人の物の考え方や視野の広さなどが、かなり大人に近いのを知っているからだ。しかしこんな些細な行き違いで喧嘩になってしまうあたり、中身はまだまだ子供なのだろう。多分今回の喧嘩は、若林が頭を下げることで落着するに違いない。こうした子供っぽいトラブルをひとつひとつ乗り越えていく事で、彼らは一段ずつ大人への階段を昇っていくのだ。 才能溢れる彼らの成長を見守れる立場にあることに幸せを感じながら、見上は煙草に火を点けた。 シュナイダーが、将来若林にアニキと呼んでもらえる関係を目指しており、その足掛かりとして今回の話を持ちかけたなんて事は、若林は勿論大人の見上にも予想できない事であった。 おわり
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