き きょうもあしたも
コーチの蹴ったボールがパシッと小気味よい音を立てて、ゴールの右隅目掛けて飛んでくる。ゴールの左寄りにいた若林はすばやくボールに飛びつき、これを枠外へとはじき出した。その直後、今度は左隅を狙ってボールが蹴りこまれる。体勢を崩していた若林はすぐに立ち上がり、ゴールの反対側へと身を躍らせ、際どい所でこのボールもパンチングで防いだ。こうしてゴールの左右に振られるようにシュートされたボールを、若林は次々とセーブしていく。 「よし、若林。交代だ!」 コーチの声に頷くと、若林はゴール前から駆け足で離れた。それと入れ違いに、コーチの指名を受けた選手がゴール前で構えを取る。 袖口で汗を拭いながら、若林は練習場を見回した。一見するといつもと何も変わらない練習風景が広がっているが、よく見るとチームの主要なメンバーが何人か欠けている。 それというのもドイツJr.ユースとフランスJr.ユースとの親善試合が迫っており、代表メンバーを集めた強化合宿がミュンヘンで行われているからだった。ハンブルクJr.ユースからは、シュナイダーを始めカルツらレギュラーの殆どが、この合宿に参加している。 (シュナイダーたち、どんな練習やってんのかなぁ) ハンブルクでの練習は充分に中身の濃いもので、若林はここでの練習に満足している。しかし国際マッチに備えての強化合宿となれば、更にハイレベルな内容のメニューを消化しているに違いない。ドイツに来て以来、己の力不足を痛感している若林は、自分よりも数段高いレベルの練習に打ち込んでいるであろうシュナイダーたちに羨望の思いを抱くのだった。 「あ〜〜〜、帰りたい・・・」 休憩時間に入るや否や芝の上に座り込み、タオルを被ってブツブツと口の中で愚痴っているシュナイダーに、カルツが声を掛けた。 「どーした? 合宿初日に弱音を吐くなんて、皇帝サマらしくねぇな」 「弱音を吐いてるわけじゃない。帰りたいと言っただけだ」 顔を上げてカルツの顔を見ながら、シュナイダーが口を尖らせる。 「・・・ここには若林がいないからな」 シュナイダーが若林に御執心な事を承知しているカルツは、あーあー、とわざとらしく大きく頷いた。 「諦めるんだな。合宿と試合が終わるまでの辛抱だ」 「ああ、言われなくても判ってる。でも・・・」 本当だったら今頃は、ハンブルクの練習場で汗を流す若林の姿を目で追って、休憩時間は若林と一緒に過ごして、チームの練習が終わった後は若林の特訓に付き合って暗くなるまで二人っきり・・・そう、ハンブルクにいれば毎日若林と一緒にいられるのに。 「代表辞退すればよかった・・・」 ボソッとシュナイダーが呟くのを聞いて、流石にカルツは顔をしかめる。 「おいおい、無茶言うな。怪我もしてないのに、ドイツの主砲であるお前が代表辞退出来るわけねーだろ!」 「辞退が無理なら、合宿には家から通わせてもらうとか・・・そうだ、実際、夜は自分の家に帰る奴がいるんだろ? 俺もそうさせてもらおう! そうすれば夜だけは若林に会える」 「あのなー、家から合宿所に通ってるのはミュンヘンJr.ユース所属の奴だけだぞ?」 色ボケでハンブルク〜ミュンヘン間の距離を忘れているらしいシュナイダーに、カルツが呆れ果てた声で忠告する。 「源さんと離れて寂しいのは判るけど、ワシらは遊びでここに来てるわけじゃないんだぞ。しかもお前はキャプテンだろうが! もうちょっと真剣になってくれよ」 「心配するな。俺はサッカーをしている時は常に真剣だ」 だが、サッカーをしていない時、こうして休憩を取っている時などは途端に若林の事が思い出されて胸が苦しくなる。今までは毎日若林と一緒にいられたのに、今日も明日も明後日も、フランス戦が終わるまでは若林に会えないのだと思うと、気が滅入ってくる。 「・・・若林も代表メンバーだったらいいのに」 「日本人がドイツ代表ってわけにはいかんだろ」 「だから、ドイツに帰化させるんだよ!」 被っていたタオルを取り払うと、シュナイダーは真面目な顔つきで語り始めた。 「若林は筋がいいから、近いうちに代表レベルの戦力になるのは間違いない。つまり国籍の問題さえ解消できたら、あいつは必ずドイツ代表に選ばれる。今のドイツJr.の守備陣が弱いのは、カルツも判ってるだろ? キーパーが若林になったら、あいつを中心に守備面でもドイツは世界最強になるぞ。いい考えだと思わないか?」 シュナイダーは顔を輝かせて更に熱弁を振るう。 「一番のメリットは、俺と若林がいつも一緒にいられるようになる事だ。それに若林がドイツ人になったら、後々二人が交際する時にも有利になるぞ。今のままでは若林がいつ日本へ帰国してしまうか判らないが、若林がドイツ人ならその心配はない。国際結婚は何かと大変かもしれないが、ドイツ人同士の結婚なら周囲の反対などは少ない筈だしな。若林と結婚・・・そしたらあいつの名前は『ゲンゾー・シュナイダー』か。若林とは呼べなくなるんだから、俺も今のうちから呼び方をゲンゾーにした方がいいかなぁ〜。いや、夫婦ならではの愛称で呼ぶという手もあるな。ハニーとか、ダーリンとか・・・」 若林を帰化させて代表チームの守備面を強化、というくだりまではカルツもなるほどと相槌を打っていたのだが、その先の妄想に関しては、開いた口が塞がらなかった。シュナイダーの妄想が若林との甘い新婚生活に及ぶに至って、カルツはやっと相手の言葉を遮る事に成功した。 「わかった、わかった! その話はまた今度聞くから、とにかく練習は真面目にやってくれよ」 そしてトイレを口実にシュナイダーの傍を離れると、カルツはやれやれと言うように小さく首を横に振った。 正規の練習時間が終わった後で、若林は仲のいいチームメートらに声を掛けた。 「誰が俺と一緒に居残り練習しないか? うるさい注文はつけない。好きなようにシュートしてくれれば、それでいいからさ」 だが若林の誘いに乗るものはいなかった。 「悪りぃけど、居残りする体力残ってねーから」 「俺、これからデートあるし・・・」 「シュナイダーもいないんだし、たまには若林も居残り練習休んじゃえよ」 彼らは口々にそんな事を言いながら、若林に手を振って練習場から引き上げていった。ぽつんと取り残された格好の若林に、コーチが声を掛ける。 「若林、今日も練習していくのか?」 「・・・はい。自主トレは一人でも出来ますから」 若林の言葉に、コーチはそうかと頷いてその場を去って行った。しかしコーチにはああ言ったものの、一人で行う自主トレは単調で出来る事も限られている。一人での自主トレと、シュナイダーの放つ強烈なシュートを防ぐ特訓とでは、同じ時間を掛けても練習成果には大きな差が出る事だろう。若林はシュナイダーが帰ってくるまでの日数を指折り数えて、無意識に溜息を漏らす。 「愚痴っても仕方ない。始めるか!」 気持ちを切り替えるように、若林は自分ひとりしかいない練習場で大きな声を出した。 そして筋トレやボールを使ってのウォーミングアップを、型を変えて延々と繰り返す。真上に投げたボールをバウンド直後に両手で捕える「ショートバウンドキャッチ」をしている時、背後から馴染みのある声が若林の名を呼んだ。腰を屈めて低い位置でボールをガッチリと掴んだ若林は、その姿勢のまま後ろを振り向く。 「見上さん!」 嬉しそうに呼びかけながら、若林はボールを手に見上の方へと駆け寄った。その後は見上が練習に付き合ってくれたので、若林は一人きりでの単調なメニューから開放されたのだった。 練習が終わった後で、若林は見上に尋ねた。 「明日も、練習を見てもらえますか?」 見上が忙しいのは知っているので、恐らく無理だろうと思いつつの質問だった。案の定、見上は残念そうに首を横に振った。 「いや、今日はたまたま時間が空いたんで、寄ってみただけなんだ」 「そうですよね・・・」 予想通りの答だった。やはり明日からは居残りの時間は一人で過ごすしかなさそうだ。だが、やや気落ちしたかに見えた若林はすぐに顔を上げ、見上に呼び掛けた。 「見上さん、ちょっと聞きたい事があるんですけどいいですか?」 合宿初日の練習を終え、代表メンバーたちは宿舎へと引き上げた。日頃は別々のチームで活躍している選手達が早く打ち解けるようにとの配慮なのか、部屋割りは別チーム所属の選手同士が相部屋になるように組まれている。シュナイダーのルームメイトは、ブレーメンJr.ユース所属のシェスターだった。 (二人部屋なのか。あ〜、一緒に泊まるのが若林だったらなぁ。そしたら眠くなるまで色んなこと話して、眠くなったら隣り合わせのベッドで眠って・・・待てよ、せっかく同じ部屋にいるんだから一つのベッドで一緒に寝たりとか、アリだよな!? でも若林は嫌がるかも・・・いやいや、そんな事は現実になってみなきゃ判らないぞ。案外若林の方から俺に迫ってくれる可能性だって、そりゃ可能性としては低いかもしれんが全く無いとは言い切れないんだし・・・う〜、本当に特別措置かなんかで若林が合宿参加になって、そんで俺と相部屋にならないかなぁ) もちろんそんな都合の良い奇跡が起こるはずも無く、シュナイダーの目の前でバッグを開けて荷物の整理をしているのはシェスターだった。シェスターは陽気にあれこれとシュナイダーに話しかけてくれるのだが、頭の中が若林の事で埋まっているシュナイダーの返答は、どこかピントが外れている。相手が上の空である事に気付き、シェスターは疑問をぶつけてみた。 「どうした? 何か心配事でもあるのか」 「心配というか・・・ハンブルクに残してきた若林の事が気になって」 「ワクァ・・・何だって?」 ハンブルクJr.ユースでは第三キーパー以下の扱いで、まだ試合に出して貰った事のない若林を、シェスターは知らなかった。だがシュナイダーはシェスターが聞き返すのには答えず、好き勝手に愚痴をコボす。 「毎日俺が面倒見てやってるようなもんだから、きっと今頃は俺の事を恋しがっているに違いない。出来ることならここに連れて来たかったけど、そういうわけにもいかないし・・・あぁ、若林と離れ離れになるくらいなら、本当に代表辞退すればよかった!」 「あー・・・それは心配だね」 シュナイダーの『毎日俺が面倒見て・・・』という言葉から、シェスターはピンと閃いた。そういえば、シュナイダーの家では大型犬を飼っていると前に聞いたことがある。ワクァ何とか、っていうのはきっとその犬の名前だ。シェスターはそのつもりで、シュナイダーを励ます。 「大丈夫だよ。シュナイダー以外の誰にも懐かない、ってわけじゃないんだろ。家の人がちゃんと面倒見てくれてるよ」 「まぁ、そうだろうけど・・・」 シュナイダーが大きく溜息をつく。 「俺がこんなに寂しい思いをしているんだ。きっと若林も寂しがってるに違いない」 これは相当の愛犬家だと内心苦笑しながら、シェスターはふと思いついて提案してみた。 「そんなに気になるんなら、家に電話してどんな様子か聞いてみれば?」 「電話か。そうだな、ちょっと掛けてみるよ」 確かロビーに公衆電話があった筈だと思い出しながら、シュナイダーはソファ代わりに腰を下ろしていたベッドから立ち上がる。この時、部屋のドアがノックされ宿舎の事務員が顔を覗かせた。 「シュナイダーくんはここにいるかな? 電話が掛かってるんだけど」 「電話? 家からですか?」 「いや、ワク・・・ワクァバ・・・癖のある発音で、ちょっと聞き取りにくい名前だった」 「若林だ!!」 さっきまでの浮かない表情が嘘のように顔を輝かせ、シュナイダーは事務員と共に慌しく部屋を出て行く。後に残ったシェスターは、狐につままれたような顔でシュナイダーの後姿を見送るのだった。 受付の中に通されたシュナイダーは、事務員が指し示す電話の受話器を取り上げた。 「もしもし?」 『おう、シュナイダー。俺』 間違いない、今日一日ずっと思い焦がれていた若林の声だ。 『どうだ、代表合宿は? ヘバッたりしてねぇか?』 「俺がそんな筈ないだろう! それより若林こそ大丈夫か? 俺がいなくて・・・」 寂しかったんじゃないかと言いかけるのを、若林が笑いながら遮った。 『居残り練習か? 今日は大丈夫、見上さんが練習を見てくれたんだ。でも明日からは一人だから、もし良かったらシュナイダーに、そっちではどういう練習をしてるのか教えて貰えないかと思って』 「こっちの練習?」 『うん。代表戦の強化練習って、どういう事やってるのか話だけでも聞きたくて。それで見上さんに、ここの電話番号教えて貰ったんだ』 「そういう事だったのか・・・」 シュナイダーに会えない寂しさに耐えかねて、という理由では無かったが、若林からの電話はシュナイダーを大いに元気付けた。聞かれるままにあれこれと合宿の事を話していると、そのうちに電話の傍にいる事務員が渋い顔で自分がはめている腕時計をコツコツと指先で叩き始めた。そろそろ電話を切れ、と言いたいらしい。事務員に小さく頷いて見せながら、シュナイダーは若林に告げた。 「若林、もう時間だから、後は明日でいいか。で、もし明日中に話が終わらなかったら、また明後日電話するって事で」 『判った。遅くまでごめん。それじゃまた明日掛け直すから』 簡単な別れの挨拶と共に、電話は切れた。シュナイダーは事務員に電話を返すと、受付を出てドアを閉めた。そして廊下に出るなり、力強く右腕を振り上げてガッツポーズを取る。 (やったぁぁぁ〜っ! 明日も明後日も、いや、もしかすると合宿にいる間中、ずっと若林から俺にラブコールが掛かってくるんだぁーっ!!) 厳密にはラブコールではなく普通の電話なのだが、それでもシュナイダーにとって嬉しい事には違いない。人目が無いのを幸い、シュナイダーは踊るようにステップを踏みながら自室へと引き上げるのだった。 おわり
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