ミュンヘン市内の某居酒屋で、若林は仲間に囲まれ、いい気分でジョッキを傾けていた。若林は日頃は酒を飲まないが、今日は特別だ。勧められるままにビールを飲み、懐かしい母国語での雑談に花を咲かせる。こんな風にくつろげる楽しい日は、滅多にあるものではない。
 若林は酔いに染まった瞳で、同じテーブルを囲む仲間たちの顔を見た。全員が黒い髪に黒い瞳。耳に入るのは、ドイツ語ではなく日本語。ここにいるのは自分と同じ、日本人ばかりだ。ドイツでの一人暮らしが長い若林には、同胞に囲まれて過ごしているだけで、気持ちが落ち着き、心が癒されるようだった。
 
 日本サッカー黄金世代と呼ばれる選手達ばかりを集めて行われた、3週間の日程に及ぶ海外研修。名目は研修だが、その実態は海外武者修行とも言うべきものだった。彼らは欧州の強豪クラブばかりに勝負を挑み、ほぼ一日置きの日程で練習試合を続けてきたのだった。
 ただでさえ日程がきつい上に、対戦相手は格上で手強いチームばかり。黄金世代と呼ばれる彼らも、この荒修行にはヘトヘトだった。だが、敵が強ければ強いほど奮い立ち、実力以上の力を発揮するのが黄金世代の長所である。負けて当然かと思われた試合を粘りに粘って引き分けに持ち込んだり、引き分けで上出来と思われた試合で奇跡の逆転劇を演じ勝利をもぎ取ったりと、この遠征期間中に彼らは確実に成長を見せていた。
 しかし今日の昼間に行われたバイエルン・ミュンヘン相手の練習試合では、黄金戦士達は勝利を手にする事が出来なかった。彼らと同世代のドイツの天才、シュナイダーが若林の守るゴールを破り決勝点を奪っていったのだ。そしてこの試合が、今回の遠征最後の試合だった。実りのある遠征ではあったが、有終の美を勝利で飾る事は出来なかった。
 今日一日身体を休めた後は、海外修行の為の黄金世代選抜チームは解散。明日には彼らの大半が日本へ帰国し、残る数名の海外組は籍を置くチームのある異国へと戻っていく。
 辛く厳しかった研修という名の修行も、今日で終わる。ということで、今夜は打ち上げとばかりに遠征参加メンバー全員で飲みに来たのだった。

 ポケットに入れておいた携帯が振動を始めたのに気付き、若林はジョッキを置くと電話を取り出した。しかし周りの話し声がガヤガヤとうるさくて、相手の声がよく聞こえない。若林は椅子に座ったまま上半身だけを後ろに捻り、賑やかに盛り上がっているテーブルから離れるような姿勢をとった。携帯を耳に押し当て、空いてる方の耳を指で塞ぐと、さっきよりは相手の声が聞き取りやすくなった。
 「もしもし?」
 『・・・若林。どこにいるんだ。随分騒がしいな』
 「シュナイダー?」
電話から聞こえてきたのが愛しい恋人の声だと判り、若林の表情が柔らかくなる。
 「居酒屋。日本代表の皆と飲んでるんだ。今日で研修も終わりだからな」
 『打ち上げってわけか。それ、抜け出せないのか? だって今日は・・・』
今日は12月7日。若林の誕生日だった。
 シュナイダーと付き合うようになってからというもの、お互いの誕生日は二人だけで過ごす大切な記念日になっていた。シュナイダーは当然今年も、二人っきりで若林の誕生日を祝うつもりでいてくれたらしい。
 『俺の家に来いよ。研修とやらの間、若林はそっちに掛かりきりで俺と全然会ってくれなかったじゃないか。もういいだろう・・・?』
 シュナイダーの言葉に若林は無言で頷く。試合に集中したかったので、敢えて恋人と過ごす時間を持たなかったのだ。研修日程を全て終えた今、恋人に会いたくてたまらないのは若林も一緒だった。何しろ今日は恋人と過ごすのが常になっている、大事な記念日なのだし・・・。
 だが、今年この日は日本の仲間と楽しく過ごせる貴重な日でもあった。皆に断って座を抜け出すのは簡単だが、これで皆と当分お別れなのかと思うと、やはり名残惜しい。
 若林は暫し迷った後、シュナイダーに告げた。

「判ってる。なるべく早く帰るよ」

「悪いけど、今日は少し遅くなるかも・・・」

「それなら、シュナイダーもこっちへ来いよ」