はじまり

 物事の始まりには2種類ある。始まるのが予め予想されている場合と、そうでない場合だ。そして恋愛感情の場合は突然に芽生える事も多く、シュナイダーの場合も例外ではなかった。

 それは、とある日の午後。その日は所属しているハンブルクJr.ユースチームの練習が急に休みになっていた。日頃サッカーに明け暮れた生活をしているので、突然練習が休みだと言われても何をしていいのか判らない。それでもただ家でぶらぶらしているのは嫌だった。
 シュナイダーは学校でもチームでも、いろんな意味でちょっと一目置かれている。同年代の連中からは「頼りになるけれど、日頃は近寄り難いヤツ」と認識されていた。その為こんな時にぶらりと会って、一緒に時間つぶしをしてくれそうな相手は思いつかなかった。
 (カルツがいればな・・・)
幼馴染であり、チームメイトでもあるカルツだけは付き合いが長いからか、特にシュナイダーを意識する事もなく普通に接してくれている。しかしカルツには、シュナイダー以外にも友だちが多い。練習が休みと決まった時から、早くも誰かと約束をしていたようだった。今ごろ連絡を取ろうとしても、もう無理だろう。
 結局、シュナイダーは自主トレをすることにした。トレーニングウェアに身を包み、普段ロードワークに使っている公園に行こうと玄関まで出たところで、妹のマリーに呼び止められた。
 「あれっ、今日はお休みじゃなかったの?」
 「ああ。チームの練習は休みだ」
 「じゃ、もしかして一人で練習しに行くの? 今日はお兄ちゃんがお休みだから、マリーも一緒にお出掛けしたかったのに・・・」
可愛い妹がぷうっと頬をふくらませる。その顔つきがおかしくて、シュナイダーは笑みを漏らした。
 「どこに行きたかったんだ?」
 「別にどこでも・・・お兄ちゃんとお出掛け出来れば、どこでもいいよ」
そう言われて、シュナイダーはマリーを連れて公園に行くことにした。いつもはロードワークに利用している場所だが、たまには妹とのんびり散歩をするのもいいだろう。
 うららかな陽射しの下、広々とした遊歩道を妹と歩いていると、公園は普段と全く別の場所のようだった。ロードワーク中には気にも止めていなかった単なる背景が、マリーの眼には全て特別なものとして映るようだ。
 色とりどりに咲き誇る植え込みの花々や、木々の間を飛び交う小鳥たち。美しく放物線を描いて吹き上がる噴水の水。遊具で楽しそうに遊ぶ幼い子供たち。マリーはそうした眼に映るもの全てに子供らしい純粋な興味を示し、いちいちシュナイダーに言葉を掛けた。
 「見て見て、綺麗なお花!」
 「あっ、あんな傍に小鳥がとまってるよ!」
などなど、マリーに指し示されて視線を向けると、何もかもが生命力に満ち溢れた新鮮な光景に見えた。シュナイダーは何度もこの公園に来ているが、自分一人の時は、そうしたものに興味を奪われることはなかった。シュナイダーはいつも黙々とトレーニングに励んでおり、周囲のありふれた光景にいちいち感動する暇などなかった。
 (俺とマリーとでは、同じ風景を見ていても捉えているものが違うんだな)
シュナイダーがそんなことを考えていると、マリーがまた新しい宝物を見つけたらしかった。
 「お兄ちゃん、見て! かわいい〜!」
そう叫ぶと、マリーはパッとシュナイダーの元から駆け出して行った。何事かと思えば少し離れた所で、一人の少年がベンチに座っている。その少年が抱き上げている子犬に眼を奪われたのだった。 家でも犬を飼っているせいか、マリーは動物に対する警戒心が薄い。飼主が傍にいるとはいえ、他所の犬に不用意に近づくのは危なくないだろうか。シュナイダーは心配になった。
 少年に並んでベンチに腰掛けたマリーは、茶色い子犬を抱かせてもらって至極ご機嫌だ。お互い犬好きという事で打ち解けたのか、二人は以前からの知り合いのように楽しそうに話している。妹に馴れ馴れしく話しかけている相手が気になって、シュナイダーは少年の様子を遠目に観察した。
 (ん? ドイツ人じゃないのか?)
マリーとの話し声が明瞭なドイツ語なので違和感を覚えたが、その少年の外見は明らかに欧米人ではなかった。真っ黒い頭髪に同じく真っ黒な瞳、鼻は低くて丸っこい。肌は黄褐色で陽に焼けていた。
 (中国人か、日本人だな。観光客じゃなさそうだが、この近所に住んでるのか?)
少年はシュナイダーに観察されている事に、全く気づいてはいないようだった。眉が太くて、気の強そうな大きな眼をしていて、それが丸顔の輪郭と相まって見るからにやんちゃそうだ。彼の視線は子犬とマリーに注がれており、とてもくつろいだ自然な笑顔を浮かべていた。
 何故かシュナイダーは、少年の笑顔に惹きつけられた。ドクっと心臓が高鳴った気がした。
 (いい笑顔・・・っていうか、かなり可愛い・・・よな。話しかけてみようかな・・・)
外国人が珍しいわけではない。テレビなどで中国人や日本人の映像を見かけることはあるし、観光旅行でぞろぞろと連れだって歩く日本人を間近に見たこともある。しかし、こんな風に興味を持ったのは初めてのことだった。
 シュナイダーは逸る気持ちを落ち着かせるように深呼吸すると、ゆっくりとベンチに近づいた。ところが、妙な事が起こった。一人の年配の婦人(彼女は見るからにドイツ人だった)がシュナイダーよりも先にベンチに近づき、少年と何か話したかと思うと、少年は婦人とマリーに手を振ってその場から駆け出して行ってしまったのだ。
 シュナイダーは慌てた。慌てて後を追おうとした。しかし・・・・・・。
 「ちょっと、お兄ちゃーん! マリーを置いてどこ行っちゃうのーーー!!」
マリーの必死の声に呼び止められて、シュナイダーは危うく踏みとどまった。そうだ、何も慌てる事はない。後から来た女性に聞けば、あの少年が何者なのか、どこに住んでいるのか判る筈だ。シュナイダーはマリーと婦人の座っているベンチの方へ取って返した。
 「お兄ちゃん、こちらバルヒェットさん。ベンジーちゃんの飼主さんだよ!」
ベンジーという名前らしい子犬を抱いたまま、マリーがニコニコと婦人を紹介した。シュナイダーは挨拶もそこそこにバルヒェットさんに、最前の少年の事を尋ねた。
 「ああ、あの子。どこの子かしらねぇ?」
 「えっ!? 知り合いじゃないんですか!?」
 「全然知らない子よ。あたくしがベンジーちゃんをお散歩させていたら、可愛いですねって声を掛けてくれたの」
そしてバルヒェットさんと少年は、ベンジーについて会話に花を咲かせながら歩いていたのだが、バルヒェットさんが急に電話を掛ける用事を思い出したため、コースを変えて公衆電話のある方へ行こうとした。ところが散歩のコースを変えようとしたのが気に障ったのか、急にベンジーが駄々をこねるようにけたたましく吠え出した。
 「そしたらあの子が、ベンジーちゃんを預かってここで待ってるって言ってくれたの。無理に連れて行っても、ベンジーちゃんの声がうるさくて電話が掛けられないだろうからって。ベンジーちゃんもちょっとの間に随分あの子に懐いてたし、愛犬家に悪い人はいませんものね。それで、ちょっと見ていてもらったのよ」
 「そんな・・・それだけ面倒見てもらって、名前も聞かなかったんですかっ!?」
 「それが、電話が思いのほか長引いちゃって、1時間近く待たせてしまったものだから。あの子もこの後用事があったらしくて、名前を聞く間もなくすぐに行ってしまったわ」
 おほほと呑気に笑うバルヒェットさんに軽い殺意を覚えながら、シュナイダーはマリーを問い詰めた。
 「おまえは? 何かさっきのヤツの事を聞いてないのかっ!?」
 「え〜? ベンジーちゃんの事しか話さなかったよぅ」
 「そうそう、マリーちゃんもベンジーちゃんの面倒を見ててくれたのよね。ありがとう」
 「面倒だなんて、そんな〜。ベンジーちゃんと遊んでただけですよ〜」
 「可愛いでしょう〜? うちのベンジーちゃん」
 「うん! マリー、ベンジーちゃん大好き〜!」
子犬を中心にした愛犬家たちの会話は、シュナイダーの耳には入っていなかった。シュナイダーは遅ればせながら少年の後を猛ダッシュで追いかけた。しかし時既に遅く、どこをどう見回しても、黒髪の少年の姿は見当たらなかった。
 (さっき、マリーに構わず追いかければよかった・・・!)
後悔先に立たず。シュナイダーはガックリと肩を落とし、見るからに意気消沈していた。ベンジーちゃんにまた会わせてもらう約束をバルヒェットさんと交わしてご機嫌のマリーとは、面白いくらいに対照的だった。
 家に帰っても不機嫌そうにむっつり黙り込んでいるシュナイダーを見て、マリーが不思議そうに訊いた。
 「お兄ちゃん、そんなにあの人とお話したかったの? なんで?」
なんで、と改めて質問されて、シュナイダーは言葉に詰まる。理由なんてなかった。ただあの少年の笑顔を見ているうちに、何故だか気分が高まってきて、是が非でも言葉を交わしたい、知り合いになりたいと思った。
 あの衝動はなんだったのだろう。
 自分でも理解不能な感情の起伏を、幼い妹に何と説明したらいいのか判らなくて、シュナイダーはあいまいに言葉を濁した。
 「あー・・・えぇっと、そう、俺の友人の知り合いに日本人がいるんだ。もしかして、そいつなのかなと思って、確かめたかったんだ」
 「ふぅーん。そっかぁ」
マリーは納得したらしく、それ以上の質問はしなかった。
 しかしシュナイダー自身の気持ちは納得していなかった。なぜあんなにも、あの少年が気になったのだろう。
 だが今頃あれこれ想い悩んでも、今更どうしようもない。偶然にあの少年に再会できる可能性は冷静に考えてみても低かった。
 (・・・・・・忘れよう)
 一抹の未練を残しつつ、シュナイダーは脳裏に焼きついた少年の笑顔を追い払おうとした。

 その翌日。シュナイダーはいつものようにチームの練習に参加していた。しかし昨夜は例の少年の笑顔がちらついて、気になって眠ることが出来ず、いささか寝不足気味でむすっとしていた。もっともシュナイダーはどちらかといえばいつもむっつりしているので、チームメイトたちはシュナイダーの変調に気づいていないようだ。しかし付き合いの長いカルツは別である。練習の合間にシュナイダーの顔をとっくりと眺め、からかうように言う。
 「顔色が冴えないな。寝不足か。夜遊びのし過ぎじゃないのか」
 「バカ言え」
そんな他愛もない会話を交わしつつ、練習メニューを消化していく。シュナイダーは、ふと、チームメイトたちがいつもより騒がしい事に気づいた。
 「あいつ、誰?」
 「さぁ? 日本人か?」
 「前に留学生が来るって、監督が言ってたヤツかな」
チームメイトたちの興味は、監督の傍に佇んでいる小柄な少年に集まっていた。いつの間に来たのだろう。少年の傍には見慣れないサングラスの男もいた。この男が少年を連れてきたようだ。少年が着ているのはハンブルクのユニフォームではないが、その服装からゴールキーパーだと判る。目深に被った帽子から覗く目は鋭い輝きを放っており、いかにも好戦的な感じだった。
 シュナイダーの眼が、驚きで見開かれた。
 まさか。
 こんなところで会えるなんて。
 昨日見た輝くような笑顔とは表情がまるで違うが、見間違える筈がない。昨日見失った、あの少年だった。
 (これは運命だ・・・・・・俺とあいつは運命の赤い糸で結ばれていたんだ!)
シュナイダーはいつもむっつりしているので、チームメイトたちはシュナイダーの変調に気づいていないようだった。しかし付き合いの長いカルツは別である。カルツにはシュナイダーがいつになく興奮しているのがありありと判ったが、その理由までは流石に推測出来なかった。
 
 カール・ハインツ・シュナイダーの燃えるような恋のはじまりだった。